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月曜朝、曇天を通り越した、雨。雨。

雨の日はちょっとロマンチックな気分になるとかいう洒落た女性も世間には幾らか、一定数はいるとわたしは聞いたことがあるような、ないような・・・

少なくとも、こと私に限っては、物事をいかに肯定的に捉えようにしても、ただの貧困一文無しをゼロベースと捉えられようとも、雨から恵みは得られまい。

ついでに言っておくならば、私はこの愛知県という地域にやってきて、以前に増して、雨がより一層、窮屈な対象になったことは認めざるを得ない。

というのも、彼らは雨に濡れたことを、「ベタベタ」と表現した。

これから連想されるものは、市民プールの脱衣所の、あの例の床であり、はたまた、風呂場の排水溝を塞ぐぶ厚い黒塊であり、天ぷら後の、あの忌まわしき喚起溝であろう。

しばしば、三河弁話者特有の「〜もんで」を聞くや、愛知へ移住してきた民たちは散々、飲み会等でそれを話題にしもてあそぶのだが・・・・我々はそんなことに構っている暇はないのだ。むしろ、「〜もんで」程度、寛容な心を持って受け入れるべきであろう。(わたしもすっかり定着した)

 

話を戻そう。そう、わたしが話さなければならぬことは、方言の話ではない。ただ、何を話そうことだか、忘れてしまった。ワーキングメモリ3のニワトリ。もう、さらに三歩動けば、思い出すという可能性にかける。そのまま忘れてしまっても、正直、全く構わないのだが。むしろ手間が省けて、よい。

 

仕事から帰るや、わたしは今朝自分の頭を過ったことを朧げに、思い出してしまった。これは、わたしとお嫁様の、側からみれば大したことのない些細なことかもしれなかった。

 

この憎き消失すべき記憶は、やはり、なのか、雨を引き金にして呼び起こされた。

今朝、雨とお嫁様はぴったり重なった。

雨は、有識化の中では、手に届く生活のなかでは、人間に面倒を授ける存在だが、意識の端においては、恵みの雨を与える。生に不可欠、無くてはなるまい。

お嫁様も、確実にわたしの無意識に作用し、日常に落とし込まれ溶け込んでいるせいで実感としては顕れないが、何かほとばしる、強く作用するものが必ずあるのだ、そう思う。

 

その力は、お嫁様に対するわたしの信仰めいたものかもしれない。その力は、少なくとも、わたしが半ば自己陶酔・自己満足的に振るい文章を書くという自己幻想をゆうに越えるであろう。この力だけは自己幻想の触媒としてはならない。