エディオンコンプレックス

接客のやる気がないエディオン(愛知県の電気屋)ほど腐敗臭が籠る場所はあるまい。エスカレーターをのぼりフロアに降り立つ。店員の脇を通り店舗中央へと歩みをすすめると新型iPhoneいかがですか〜とか、ガラポンデキマスヨーお子さんとどうですか〜?みたいな生温い勧誘が我々の方にモワッと、湯気のごとくたちのぼりながら纏わりつくものの、それはただちに、即座に消散してしまう。なにか、残念な感じがするのである。

そんなとき、夜の歌舞伎町を思い出す。あの街を通ったことが数回ほどあるが、執拗に付き纏われているという感覚を永遠に覚え続けた。決して振り解けない彼ら彼女らからの逃走。風俗街からの逃走を試みた無一文で真性のわたし。エディオンは逆説的に、あの時代の記憶を呼び覚ます装置でもある。

そう思うと、逆説的に記憶を呼び起こされてしまうこと、これに直面することは我々のなかでもままあることである。

例えば、色々あるとおもう。家の机に半分に欠けた茶碗があるのだが(欠けた断面が養生され金継ぎされることを待っている。実効されるかは不明)、それをまじまじと見ると、夕飯の光景が目に浮かぶ。なんてこともある。

ある意味で、残念なものというものは、本来あるべき機能を失した状態にあるものというべきかもしれないが、このときに逆に失したものが際立つという現象が起こることも、また真ではないか。

というような綺麗事をわたしは申し上げながらも、それならば、現実的な話で、仕事ができない人間もこの世には必要であるというあの甘い言説も、上記のような理論に乗っ取ったことの延長であるように思われる。すなわち、仕事ができない人間がいるから、できる人間がいるというような話である。

でもそれについて、すこし考えてみたが、私の思考は一瞬で停止する。なぜなら、仕事のできない人間というものを、この世で目にした事が一度もない。私の慈愛の精神に満ち溢れた分析によると、最も仕事のできない人間はわたしその人、であるからである。

でも、冷静に考えるとそのように考えるのは無理があるとも、同時に思う。それは、わたしが最も無能な人間で、その逆説の理論の使い手であれば、周囲の人間が有能なのは自分の存在のお陰であると私が思うからに他ならない。

 

エディオンに入店すると歌舞伎町を想起させること(のようなこと)を、「世界と出会い直す」というように、お洒落にパラフレーズされていたのをふと思い出した。それはたしか贈与の話題についてであったが、あの残念なエディオンこそ、ある意味で究極の贈り物なのかもしれない。