29歳、夏の夜のサーティーワン

夜のサーティーワンに事件なぞあるわけもなく。汗でぴっちゃり背中とTシャツが引っ付いている中国人、歯切れの悪い日本語でナッツトゥーユーとオーダー、kpopを意識した異様に色白脚長の女子高生が丸テーブルを囲いながら、各々の端正な顔はスマホに照らされる。それから店員がほとんど善意で試食でくれたやたらと甘いパイナップルシャーベットは常夏の目眩くビーチという燃料を、彼らに注入した。

夏、思い出す会社のあのチーム会議。夏といえば一言!みたいな雑すぎるにも程があるテーマが職場改善課から与えられる。何気ないものだ。で、そこにいる40人が喋るイベントが発生したときのシンプルなあの絶望感。コミニケーションスキルと職場の人間関係の向上を意図した試みに対する諦め。そこから始まる沈黙や、たまにの突然面白いおじさん、変化球的な高尚さのコメントに困る上司。甘酸っぱいパイナップルシャーベットそのものでもある。素麺の旨さに気付いて感動した話をした私は、驚くほど滑った。

言うなれば、サーティーワンは夏の聖域でもある。サーティーワンにはゾンビでも入店可能であるし、ひとたび足を踏み入れれば一時的にゾンビ未満になれる。ただ、外に一歩踏みだせばまた元の姿に戻るのだ。だからサーティーワンに避難したところで、我々の本質的な課題は克服されない。31で回復を試みるなかで、逆説的に失ったものを己の中に知ることになるのだ。

そうはいっても、本質的な己の課題を抱えて、それを自覚しながらサーティーワンに通うMに友達はいないだろう。Mにとって、己との対話が世界そのものであり、それ以外はおまけであるのだから。

サーティーワンにいる人間はMのような渋顔をした修行僧のような高尚ぶってる厳かな人格の持ち主たちなどではない。もっと自然に、ナチュラルに治癒を求めてそれを手元にさり気なく手繰り寄せることを、ほとんど無意識にやってしまう。回復していることにすら気付かず、でも回復していることを良しとして、彼らはサーティーワンに通うのである。