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レゴブロックやM6のレンチ穴が空いたボルトが床に転がっている状態について、鼻をかんだティシュがワックスの剥がれたフローリングにへばりついている状態について、金魚の丸っこいラムネみたいな餌が地面に咲き乱れる状態について。

その状態について、なにか言いたいことでもあるのだろうか?何か言いたいからその状況を認識しているのか?不快だから分かるのか?分かるから不快なのか?何が表現したくて文字を書くのか?さらさら、口を閉ざしたいのか?暇潰しなのか?暇なの?か。はたまた愉快なのか?

当ブログは暇が沢山詰まった代物で、暇をめいいっぱい食べ尽くして、食べ尽くした。私はリスキリングに勤めなかったし、自己啓発に足先が向くこともなかった。やろうと思ったことはあったけど3日坊主すら、全然むりだった。ただ妻と喋り早く寝て淡々と会社に行き、たまにブログを更新した。

結局、わたしは30まで生きて、自分が最もできることといえば、あまり共感すらされることがない独り言をほとんど時間が許す限りは延々と、喋っていられるという以外にはない、ということに気づいてしまった。でもそれは研ぎ澄まされた刃物のようなクリティカルな才能ではなくて、のんびりとした広大な帯広の緑に佇む牛のような、そういう気長さと緩さを併せ持つ気質のようなものに近しいと思う。

そういう自分の気質に対して、唯一無二という煌びやかな言葉をいつも掛けてくれるのが、妻であった。妻はお世辞でものを言うことはないのだが、多分純粋にそう思っているところもまた、健気なものである。(という余裕のある冷静さを装った分析風をしつつも)、素直に私は喜んで、そのように評してくれる人が身近にいることは幸せなことだと、思うのでした。

自分は独り言を殆ど延々と時間が許す限り書き続けられるというちょっとした嘘を書いたわけだけれども、わたしは結局のところ、これは人間を感じるための営みなのだということは、そうだと思う。読む人のイメージを誠に勝手ながら作り出すというのがそれに当たる。人と距離をおきながら、一人でスマホを手に取って、そして身勝手に人を作る。それはSNSのような直接的な人間との作用ではないにしても、こうまでして結局のところ、この内向人間も24時間営業なのである。