飯を食うという発明を、ただ忘れたかった。in東名

8/15。

大雨で東名が御殿場から通行止めとなった。そりゃもう踏んだり蹴ったりで箱根湯本に一泊する羽目になった。

その翌日の8/16。とぼとぼお嫁とその中の人と新東名下を走った。ぼわっと拡がる山々、やたら幅があって綺麗な路肩、トンネル、トンネルにトンネル。とほほ、もう貴方には飽きました。

そして

なにより、腹が減った。

まだ名古屋まで2時間はかかる。

わたしは港北PAで買ったコロッケサンドにそっと手を伸ばす。ものの、何故だかそれにありつけない。コロッケサンドに手が近づくとコロッケサンドそのものがひゅるりと逃げてく、ような、遠ざかっていく感覚?に襲われる。

これは幻覚でないのだろうか?

これは幻覚かもしれないけれど。

(助手席に座る女の子がバクバク横で飯を食っているのが事実の総体である。)

 

しかしながら腹が減った。というこの感覚は幻覚ではないであろう...

 

腹が減った。

そんなとき私達は何をするか?

そう、我々は迷うことなくビッグマック(トマト2枚追加)を食うのである。というのはちょっぴり乱暴だが。

別にビッグマックでなくても構わないんすけど...梨でもピータンでもいいし。ビート板でもいい。豆板醤でもいい、白飯に醤油をかけてかっこんでもいい。

心ゆくまで貪りたまう。

そういう妄想だけで幸せになれる。

 

ところで飯を食うのはなぜか?

わたしのハンドルを握る手に力が入る。

 

そんなのは人間の生命維持の為だと、そう答える人はいる。わたしもそう思う。生命維持すらできなきゃ子孫繁栄なんかそのまた夢の夢くらいな感じもする。子孫繁栄がプライオリティかは知らんけど、でも少なくともカロリーや栄養は生命活動にとってなくてはならない。

はずだ。

 

ただそれはそれとして、我々が飯を食うことについてちょっぴり考えてみたとき、それに対する答えとして

腹が減るから!!!!

という人がいたとして。いささかそれもアリではと思われる。腹が減ったという感覚がどっからか降ってきて

 

そして間もなく飯を食う。

 

我々は当たり前のようにこの一連を行う。

行ってしまう。

しまう、というのは何かを誘導しているような表現ではいかかがわしいかもしれない。

普通に生活していて、この対応にあまり疑問を呈するということはない。そんなことに一々疑問を投げかけるほど世の人間は暇ではない。資格の勉強の一つでもした方が、よっぽど有意義であろう。Netflixで一本映画だってみれる。

だから暇な私が代わりに考えようと思う。

望まれていなことを勝手にしたいと思うのは天邪鬼ではなくて、ある意味では生存戦略でもある。と開き直る。

私はサハラ砂漠のど真ん中で無飲無食で歩いているとかでない限り、この対応を無意識で受け入れて然るべき「食う」という行動を起こすであろう。

 

突然だが

①空腹感には不快感があるか?

という問いを立てたとき、正直なところよく分からない。

勿論、一ヶ月くらい何も食ってない状況と昼飯が上司のせいで3時間ビハインドしちまったときに感じる空腹感とは比較は困難だ。全く違う。①で言っているのは後者に近しい。命に関わるものでなく軽ーい空腹感とでも言うものだ。

 

もう一度①を修正すると

②軽い空腹感は不快か?

不快といえば不快かもしれない。空腹を終わらせようとして口に物を運ぶという気もする。何というか空腹を不快と感じてそれを払い除けるように飯を食うというよな感覚もある。ような。腹に飯が注が込まれるや空腹感は徐々に消滅していく。

 

それは欲望全般に言えることだろうか?眠くなったら

「眠気を払い除けるように眠る」

と私は思うかと問うと、そうでもない気がする。

眠いから寝るのだと思う。

ただ眠いから寝る。

腹が減ったから食う。シンプルな対応がするだけなように感じる,

 

そうすると、空腹感は決して不快でないのではという気がしてくる。空腹感が不快でそれを解除、緩和するために飯を食うのではなく、空腹感がサインというか引き金となり我々は飯を食ってるのではないかと、そう思わずにはいられない。

 

だから何なのかというとよくわからないと言いたくなってしまうが、例えばこんなのはどうだろう。

 

歩いていて交差点に差し掛かる。その時の信号は青点滅から赤に変わりつつあった。朝の電車に乗り遅れるか否かの瀬戸際だ。

急いでも点滅している間に走って横断できそうにないので、立止まった。

というような場合、この人は

青点信号は進める

赤信号はストップ

というルールを予め知っているということだろう。この対応関係が頭にインプットされているからこの人は信号を渡ったり止まったりできる。

この赤とストップが対応しているのはなぜかと考えると、これはただ人間様の都合というか、赤が止まるっぽい雰囲気なので赤をストップとするくらいのローカルで恣意的な操作なのだろう。

だから別に青がストップでもそこまで問題はなかったと思われる。勿論突然この瞬間から青と赤の解釈が逆転しますよん!というお話になれば大混乱が生じるだろうが、このシステムが稼働し始める瞬間であれば問題はないはず。

 

同じように「空腹感」は「飯を食う事」と対応している必然性があるのか、怪しいような感覚があったりする。それは信号のシステムのようにまでいかなくても、この対応は経験的なものに片足ぐらいは掛かっているのではないか。

 

空腹感は身体が食べ物を欲しているのはそうなんだろうが、空腹感は別に不快に感じられているわけではない。のでこの空腹感を乗り越える必要性はない。この空腹感を乗り越える最善の方法は飯を食う事に違いないのだろうけど、それは身近に知られていることだ。そういう風に習った訳ではないが幼少期の自我が目覚めたころから当たり前のように周りの親子や兄弟が空腹感を抱いては飯を食うという行為をしているのを学習した。

その方法を取って空腹感を乗り越えてきた。

 

だから仮に、空腹感が来ても、空腹感を乗り越える方法である「飯を食う」という行為を答えとして知らなかった場合、お腹を叩いたり、走ってみたり、シコってみたりするのだろうかと言われればよくわからないけど、多分そんなことはしないかと思う。

 

なぜなら空腹感は不快感を伴わないからである。空腹感は煩わしくないので、飯を食うと空腹感が緩和されるということを知らなければ、そのまま空腹感は空腹感のまま放置されることであろう。

 

本当か!!!??

 

飯を食うという発明を、忘れたかった。in東名