3・10

わたしと妻は新大久保に来た。

そろそろ職を決めないと色々まずいが、遊び惚けている。

新大久保。いわずと知れた韓流タウンだ。

いろいろ妻と二人で練り歩いて、腹が減ってきた。

サムギョプサルという豚バラ焼肉の店にわれわれは入った。サムギョプサルについてもう少し補足しておくと、サンチュと呼ばれる葉ものに豚バラ肉とキムチやらをのっけて焼いて食うものだ。

ちなみにどうでもいいけど、チーズタッカルビのタッの部分は鶏肉の意らしい。まあ消去法的にそうなるだろうけど。

鬱蒼と汚いビルの地下に降りてから、我々放蕩夫婦は検温と除菌を済ませると、店の中央のテーブル席に通された。

ひとはぽつぽつまばらには入っていた。空腹で思考停止した我々は目下の店に吸い込まれたので、あまり信用はならない。

韓国人ぽい兄ちゃんがおしぼりとか箸とかメニューとか不愛想に持ってきた。我々は脊髄反射で70分サムギョプサル食べ放題コースにジョインしていた。肉を三種のうちから二種選択せよと言われたので、バジルとプレーンのサムギョプサルを選んだ。

70分はスタートした。

ものの数秒で肉が運ばれてきた。クールな兄ちゃんは鉄板を温めようと火力をマックスにあげた。それですぐにどっかいった。

我々の前に生肉が置かれてある。

鉄板は温まったようだ。

我々はサムギョプサルの作法は無知だがとりあえず目の前の生肉を焼こうと、われわれの本能がそういった。

そう、これはきっと思考を介さない動作だ。

わたしがトングで肉をつかもうとしたそのとき、鉄板の表面がすこし陰って暗くなった。

あの兄ちゃんがいた。

笑ってもいないが、不機嫌な感じは別にない。

無に祝福された男。

わたしは生肉を掴もうとしたトングを置いた。そっと。元の場所に。

そう、これは思考を介さない動作だ。

兄ちゃんはアルミを手早く鉄板に敷いた。そしてトングを掴んで生肉をさっさっと縦に列に並べた。

この時、われわれ夫婦の両手はそれぞれの膝の上に規則正しく置かれており、背筋も伸びていた。

わたしたちは肉が焼けるのをただ待った。無言で。

その間もその例の兄ちゃんが時折我々のところにきて肉の面倒をみた。

肉が焼けたという時分になって、ようやく兄ちゃんは口を開いてどぞ!!!!と声を上げた。驚いた。思わずわれわれ夫婦も目をあわせた。

先ほどまでの緊張感が馬鹿みたいと思うほどに、あっけらかんとした声だった。

片言の日本語が手伝ったというのもあるかもしれないけれど。

我々はガツガツそのサムギョプサルなるを頬張った。

うまい。

すぐさま次のサムギョプサルを焼いてもらうために彼を呼んだ。

すぐに来た。

プレーンとまだ頼んでない味を注文した。

それらは運ばれるなり、また彼の管理下のもと調理が始まった。

わたしたちはその間チャプチェを食べるなりをして待った。いい感じに焼き目がついてきたと思うと、彼が影のように現れてトングで裏返して、そしてまた消えた。それを繰り返した。

焼き具合もそろそろいいんじゃないの?と思った頃には、彼はわれわれの眼前にすでにいた。

ひょろ長い。痩せ型。親近感を覚える。

彼はハサミで肉を細かく切り始めた。さきほどと同様に何の躊躇いもなくハサミを進める。あと数秒で、どぞ!!!が拝聴できるだろう。

と少なくともわたしはそう思っていたが。

彼は切り終わるや、ハサミをおいて消失した。すでにいない。

われわれ夫婦は手を膝に置いたまま、どうすべきか議論した。これは食べていいのか?それとも例の

「どぞ!!!!」

が出ていないからまだ完成していないのかもしれない。

サクラダファミリアのように。

われわれは議論の結果、これは確実に火が芯部まで通っているし完成している判断した。

彼があのあっけらかんとした声をあげなかったのも、気分だろうし、そもそも常時がこの不愛想なわけであれは突発的に出たバグのようなものだろうという結論に達した。

そんなこんなで、肉をサンチュに巻いて頬張り始めた。

くそうまい。

われわれは夢中で食い続けた。

鉄板がすこし陰ったのに気づいたのは、わたしが先だったと思う。