ねこしっかく。

 ねこという生き物は、あれは、ね。僕の人生の師匠に他ならない。

 


 我が師匠は人間というものに一向に媚びず、のうのうと、主人の留守の間もそこいらの近所、溝川、コンクリの側溝、工事現場の脇っちょ、小便風味の草むら、それらをぶらついて、腹が減ったらおい主人と、ご主人様ー、御主人様とお得意の撫で声を起用に駆使しながら、さり気無く近寄って、それからツナ缶をせびるのである。

 近々の僕は、僕はというと、恐れ多いこともさることながら、勿論、師からはまだまだ多くの事柄を学べる、いや学ばねばなりませぬが、師からは及第点を頂ける程度には成長したと、存じ上げております。職は断じて探しませぬ。いやでも、まだ精神的な面では何らの、師の境地までたどり着けていないことは、重々、承知しております。妻に対する負い目、そうそう、負い目を感じてしまうわけで、ね。その一物の人間らしい不安が、僕の毎晩の妻へのご奉仕、師でいうところの撫で声ですな、ハイ。妻から明日の千円、二千円ナリの小遣いをせびった僕は、なぜかこう、なんかね、両腕をさすってね、堂々としていられらくなってね、柄にもなく妻に先に風呂を譲ったり、食器の類はウォッシャーに入れたりね。ついでに洗濯物もドラムに仕込んでね。玄関の靴も、こう整えてね。先をしっかり。えへ、ありゃ。あれ?


 あれ?こりゃ及第点ですかなあ? お師匠さん。


 その玄関に鎮座するブロンズの猫は、終始、無言を貫いた。

 

お誕生日!

 Mさん。あなたはお誕生日を迎えましたね。24だそうですね。ええ、僕も24です。 24と言ったら、まだまだ人生永いような、そんなような気も起きますが、そうでもないみたいです。

来年から我々は愛知県で苦楽を共に生きなきゃならんわけで、どういう訳か、ね。僕が愛知県とか名古屋とか、特に刈谷という言葉を耳から招き入れる時に何を想い出すかって言うと、アレです。YDA青年とキャンピングカーとパスタのあの濁りきった茹で汁です。これからのワードが、僕の脳内の刈谷SAの所にしっかりタグ付けされていて、ほとんど無理矢理、括り付けられておるのです。だから、これから住むべく刈谷は、白濁した塩味の強くて生温いお湯を僕に連想させます。鍋の底も見えぬ、あの茹で汁を。

これからの、決して永くも無い人生を、しかも茹で汁のたっぷりとした、鍋に飛び込むような人生を、きみとなら、何とかやっていけると、根拠も無く、そう思わずにはいられません。

 

 

ポンポコ夫婦

君と一緒にいると小説の中にいるみたいだ。たぬきうどんを啜りながらさっき妻にこんな事を言った。なに、とその嗅覚が何かを察知したのか明らかに妻は訝しんだ。なになに急に、だって、だってさ今の今まであんたさ、アンタのそのチンポジが左から真ん中ドストライクに移行しつつあって、で、その原因がどうせすぐ飽きるんだろうけど土日返上で馬鹿みたいに躍起になってやってるトレーニングによって然るべき場所、背筋、腹筋、広背筋、股関節あたりの大御所がむくりと覚醒して、寝る時の姿勢が完全な仰向けに強制されたからだみたいな力説してたよね?アンタさあわかる?チンポジが云々の話をしてた人がね、唐突に、あっけらかんと夫婦の核心に迫りそうなさも意味有りげな事を口走ったらさ、驚くよね?しかもさ、そもそもね、FM市川で流れてる女子十二楽坊バックにたぬきうどん食べながらチンポジの話する?しかも、たぬきうどん食べてるんだったらね、そうね、例えば平成狸合戦ポンポコとか、あ、違う、ポンポコ作ったあの高畑勲監督のそのアニメ製作に対する想いとかさ、そういうのを語りながら、ね、アニメ表現を果てし無く追求し続けた彼の想いと一緒に、わたしはこのおうどんを美味しくいただきたい訳。と箸を止めた妻の主張は多分そんなところだろう。こうなってしまっては、妻のその眼を見てわるかった、わるかったとよ素直に謝罪せねばならないわけで、ただ言われっ放しは少々癪に触るのでぼそっと聞こえぬ程度に反論しておくと、毎週日曜日昼に我々は決まってたぬきうどんを食うわけで、平成狸合戦ポンポコの話はとうの二、三週間前に我々夫婦の議題として既に卓上に上がっており、狸合戦ポンポコからあらぬ方面に我々の会話は飛び火していき、詰まる所、行き着く先は何時もチンポジで、それが我々の知性の限界、到達点であるように感じたという具合である。だから、わたしは密かにというか、こういう与太話に蹴りをつけるべく画策した結果として口から出てきたのが、我々夫婦の新たな議題となっている冒頭のあの言葉である。でさ、と妻は口を開いた。明らかな嘲笑を含んで。で、あれ、なんだっけ小説だっけ?なに、あんたじゃあこの今までの私たちのやりとりにさぁ、ブンガクテキな要素って言えばいいのかね、そういうの感じてるわけ?卓上に転がるボールペンを持ってカチカチ鳴らしながら、内心というか、わたしは歓喜した。ブンガクテキ、うふふむふふ。文学の意味するとこなんか知ったこっちゃないが、未知なる得体の知れなぬ響きを含むこの言葉は、我々夫婦の週末を何処に誘うのだろうか?わたしは無意識に股間のほうに手を持っていきながら、その楽しい終末を想ったのであった。

てれびをみました

試してガッテン、ウィンブルドン。そういうものを観ながら僕は1日の残りを過ごした。試してガッテンというTV番組は、ご存知、主に健康食品関連のものを片っ端からためして合点していく訳で。それを観て承知したと言わんばかりに、合点した主婦達は今晩の頭の中で描いていた晩御飯をちょっとね、変更!お風呂入っちゃったけど慌ててドライヤー吹かしてスーパー凸して鰹節パックを奪取、で、もう食卓に乗ってる冷奴とかサラダとか味噌汁にとりま鰹節を、さっき合点しといた鰹節を乗っけて、万事今宵は家族の健康は約束されたし少なくとも悪夢を見る事は無いだろうとホッと胸を撫で下ろすわけである。合点した主婦は置いといても、今夜の鰹節をただサラダ油の中に突っ込んで作る鰹節油なるそのまま東みたいなネーミングセンスの、鰹節油はさっそく僕もためしてみましたが、中々、おつです。ウィンブルドンも熱心に観てる(現在進行形で)のでふが、流石というか英国紳士のスポーツだなと思ったのが、打ったショットがネットの上のとこにちょんとあたって相手コートに入ってしまうことがそこそこあるじゃないですか?その時は勿論、ショット打った側のポイントになるんだけど、ちょこんと肘から上をあげてすまんみたいな意思表示をして、しかもやれやれ夏の湘南の陽射しは鬱陶しいみたいぜみたいな絶妙なしかめっ面までをサイドメニューとしてサービスする訳で。結果のみがシビアに要求される大舞台で、表面上だけでもそういう御作法があるのはね。

百足

人はよく吐き気を催す嫌悪感を示すものについて表現するときに、生理的に受け付けない。というような類の表現をするかと思います。その物、ないしはその人、対象への嫌悪感が不明瞭で、ぼやけていて上手に説明出来ないときの逃げ道としても、我々はこの表現を少しばかりお借りするのかもしれません。その生理的に拒否された側も、その場合、仕方がありません。おそらくはそれは日々の努力とか時間とか鍛錬とかが解決し得ないのですから。金目のものが詰まったいかにもなアタッシュケースを紳士服に身を包んだムカデに贈呈されようが、わたしの肩甲骨の辺りや湾曲した腰辺りをその百本だかなんだかの脚でグリグリねじねじされようが、わたしは百足を生理的に受け付けることは、到底無理でしょう。それは叶わないわけです。そういう意味では百足に対して若干の同情をしない訳ではないのです。

さて、私が今、現在こんな話を取り上げたのはそんなに気まぐれなことではなく、空想や妄言めいたことでもありません。日曜日、炙ってほんのり溶けたマシュマロみたいな甘い午後に差し迫る、暗雲、恐怖、いや事件といって殆ど差し支えないことかもしれません。ものごとは結論から取り上げることが肝要であるとわたしはある種心得ていますので、申し上げますと

 

消えました。死体が。ただ一つの脚を置いて

 

これこそ妄言と言われても幾らの否定もできませんが…正直に申し上げます。例のあのムカデに関して、昨晩の辛口のカレーと消臭剤とが入り混じったわたしのこのプライベート空間、ピッチ中を縦横無尽に駆け回っているという疑惑が生じているわけです。

九十七足として。

いや、確認しておきますが、その例の九十七足君をひっぴがえして、その白い腹から伸びる生足を一本一本丁寧に、赤子をよちよちあやすかの如く、そして紅白玉入れの如く数えた訳では、勿論ありません。そもそも、百足という生物が100本脚が生えているなんて、そんな安直な発想の元にこの件に関して、思考をしていいのでしょうか?いずれにせよ、百足の脚の数が千だろうが万だろうが、幾らだろうか、この際どうでもいいのです。大事なことは、この事件、彼が、死体となっていた彼が一本の脚を現場に置き去りにして忽然と消える、フローリングの床から。この事件が、今週だけで3回も起きているという事実です。

そうすると、彼の仮の脚の本数が残りの命の数を表していて、かつです。生理的に受け付けられぬからwikipediaで生態というか生物的な情報を得ることも私にはままなりませんが彼が仮に大きく見積もって、百の脚を備えていれば、あと九十七の命があるわけです。

そうすると、わたしはあと九十七回、もっと少なくて済む可能性も存在しますが、彼が何処か白い壁からにゅるにゅる左右に身体を揺らしながら出現する、わたしはティファールで湯を沸かし、えーーいと熱々のとっておきを彼にお見舞いして、あの長い胴体がくしゅんと丸まって要介護でもう店仕舞いする古本屋の爺みたいな背筋で仰向けになって絶命する瞬間を見送るという一連のイニシエーションをせねばらならないのです。それを考えただしたら、わたしは絶望しました。絶望ってこういう時に使うものかもしれません。だって、わたしの安息の地、そこで寝起し過ごすこの場所に、その平安を脅かすような存在がひっそりと息を潜めていて、その彼は殺されてもなおも立ち上がり、しかも残りのライフは97もあるわけですから。もういっそのことここは腹を決めて、次回の殺害の際にはお得意のティッシュを三枚でも何でも持って構えて、びゅっと掴んでぽいと捨ててしまえばいいのかもしれませんが…今でもそれはわたしにゃ到底できません。これはあの生理的に受け付けないという当初のものもありますが、なんとなく、この絶望の中でも今となってはかれも愛すべき同居人である気がした、というのもほんのりですが、あるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えんとりーなんぼー2

名言ぽいぽい

 

かのアインシュタインは言いました。「人生とは自転車のようなものだ」と。その名言をきいたならば、我々はその意味を考えます。「自転車→漕ぎ続ける→それをやめたら転ぶ」と。当たり前ですが、一見突破なことに聞こえてもしっかりと論理性を持っています。だからこそ、我々の中に名言として深く刻みこまれるのかもしれません。

 

このゲームは「頭」と「お尻」に類似しない単語を配置してから名言ぽいのをつくって、他の人が頭とお尻を繋ぐロジックを推理します。

例えば、Aさんが単語が書いてあるカードを手札から二枚出します

頭→イケメン、お尻→勉強

そして文を宣言します

「イケメンは勉強するな!」

そうしたらば、Aさん以外の人がその二つの言葉繋ぐロジックだったりニュアンスを推理します。(早押しかなんか)

 

非イケメンは勉強するしか生きる道がない→イケメン様は非イケメンの勉強というステージでの貴重な枠を奪わないでくださいお願いします。

 

 

 

 

 

えんとりーなんばー1

メモ

 

あんびしゃすJK

あなた(プレーヤー)はファッションに敏感な若干17歳の田舎の女子高生です。田舎ムスメといえど、あなたはそれはそれは立派な野心家で、自らが流行の発信源になりたいという欲望を持っています。あなたは流行を作る為に、他の野心家(他のプレーヤー)と同じアイテムを身に付けても、ファッションリーダーには到底なれません。しかしながら頭に突然、蒟蒻を載せても、少々斬新過ぎて周囲が付いて来ることができません。今の流行りと相談しながら、新たな流行を創出しましょう!

つけ麺屋一燈で記す

究極の休日とは何だろうか?そういうことはポカンと口を開けて虚空を見つめ、過ぎ去る時間を肌で感じながら、誰もが一度か二度は考えるかもしれない。

休日が精神、肉体面の休養のみを目的とするならばゴロンと横になって本でも読めば万事解決じゃないですか。本でも読んでれば、日々の取引先や上司や、そういったものから少なからや解放される。

いや、待てよ、と。人間様は強欲だからもっと欲しい、そんじゃあ、物足りんと思う訳である。肉体面と精神面の休養は当然越えてくるラインであって然るべきで、それ以上を御所望のようである…サハラ砂漠で乾からびて、今にも死にそうな半亡者が思うのは、サッポロ黒ラベルが飲みたいとかプレモルが飲みたいとかそういう願望であって、決して水など、彼らの眼中にないのである。

ということで、とりあえず、人間様はそれはそれは欲張り困ったちゃんで、休日に休日以上の価値を求めがちである。でもそれは仕方ない。現代の"らいふわーくばらんす"とやらの"ライフ"の皺寄せが全て休日に殺到し、群がり、新小岩麺屋一燈みたく、地獄絵図そのものの形相を呈しているからである。わたしは今、麺屋一燈のこの理不尽な、しかし公平な行列の中でこうして炎天下、ブログを綴っている。

いつしか私様はこの行列の果てに辿り着き、あの脂っこい引き戸をひいて門をくぐり、日本一だかのつけ麺にありついたとしても決して満たされることは無いだろうな、と。だから、こうしてこういう意味不明な事を書いていると、私がこの行列の中にいる意味は、いよいよ希薄になってくる。ここにいる大半の人間が、これから一燈のつけ麺を食って美味いという漠然とした感想を抱いて、それを恐らく友人や家族みんなで共有して、楽しむのかと思う。

やっぱり、休日は自由な生産に尽きるなと思う。わたしによって生成された我が子、を通してわたしを見る。それは最も近くにいながらも、ぼんやりとした存在である自分を知ることができる、唯一かもしれない。

わたしは過去のブログを、後々さっと目を通すことがある。文章の読みづらさや意味が通っていなかったりも勿論、表現の稚拙さや抽象的だったりも手伝ってか、正直、生産者であるわたしですら意味が掴めない時がこれはこれは、結構ある。無責任かもしれないがそれを書いた身に覚えがない。これはわたしが忘れっぽい人間なだけか、それとも、自分自身が絶えず変わり続けているというのも、大いにあり得るかもしれない。

それでは、よいgwを

 

--------追記-------

ちゃんとしたボードゲーム(ゲームマーケットに出品するレベル)を作ろうと画策中なので(今思い付いた)、人員募集中!!(絵かける人特に)

 

 

 

かみのしてん

最近というのも、もはや、脳天、つむじが見える。自分のつむじというものはこうも、上陸したての台風のようだったとは。兎に角、わたしはわたしのつむじがみえるわけで。

この現象に苛まれ始めたのはいつだったか?もう、正直言って私にはほとんど記憶にない。というのも徐々に後退?して拡がっていくのであるから。生え際ではなく、視界がね。わたしが認識する世界がふわふわと宙に浮いているんよ。少なくとも高校、大学の初年度くらいまではつまらん新書を読んだりスマホをいじったりしても、ゆるやかな鼻筋、それを視覚という情報の中に明らかに捉えることができた。それは確かだと思う。それから二、三年経って気づいたら、もう、つむじであるんだから、そこまで到達しているわけで。それはそれは困ったもので?こうやって今もふかふかのベッドに仰向けになっていると、わたしの不甲斐ない顔面と対面せなきゃならない。

もう随分と、慣れてたものだが、こうも自分の一挙手一投足をまざまざと見せつけられると、ね。行動が色々と、制限されてくるもの。

ーそれはあなたもお分かりでしょうに?ねこちゃん。

わたしは、横でせいぜい半分くらい目は覚ましているだろう小動物に同意を求めた。

ーそうですね…

愛猫の御登場。むくりと起き上がって、ベットの麓からぴょんと登ってきた。名はねこ。そのねこさんからは気の抜けた炭酸のような御返事、それが微妙な間を開けて戻ってきた。いつもどおり。

ーおはよう、ねこ

ねこはキョロキョロと辺りをそのあおいだか茶だかわからぬ透き通った眼で、わたしを捉えた。

ーどうです?つむじのご機嫌は?

ねこは毎朝のようにわたしに尋ねる。今日も綺麗に、黒々逆巻くつむじは健在であって、その端整さなことといったら、日を増すごとに一級品そのもののようにさえ、思えた。

ー今日も残念ながら、ね。綺麗にくっきりとしてるよ

ーそうですか…ところでこんな時間ですがお仕事はお休みですか?

ーそれなら、ね昨日辞表を投げてきた。近い将来あの上司のつむじになると思うとね

ねこは口角をほんの少しだけ上げてわらった。

ー珈琲でもいかがです?

ーどうも、あーお湯だけ頼むわ

ねこはテーブルに飛び乗って、2Lミネラルウォーターのペットボトルのキャップを器用に回すと、少し底を持ち上げて、徐々に傾けながら横のケトルに注いでいる。

寝癖頭のわたしはこの先をぼんやりと、思った。このまま視界が後退する、つむじは段々と遠ざかる、いつぞや大気圏すらもゆうに突破して、優雅にゆらゆらと星間を飛行しながら、久遠、宇宙の真理まで到達できるかと想像する、嘔吐、吐き気。それこそ神さまじゃないかと。わたしは神さまの代行か、なにかなのか?いやいや、上司のつむじに恐れ慄いて会社を辞めてきた天性の狭量を持つこのわたし、が神様代行業務とか任されるのか、ねと。

そんなこんなで、ぶぉーーと電気ケトルが吠えた。わたしはベットから起きた。ねこには熱湯の処理は危険であるという暗黙の内である。ここからはわたしの出る幕で、インスタントの珈琲粉を二つのカップの底にさっとばら撒いて、それからお湯をちょろちょろ注ぐといった具合だ。完璧。ねこのカップには一掴みの氷を入れて、テーブルに置いた。カチカチと氷に亀裂が入った音がして、珈琲の香りが八畳間の部屋を占有し始めてから間もなく、ねこはテーブルにやってきて、美味しそうに珈琲をお召し上がりになっておった。わたしはというと、そう、ヤケににこにこと、しておられる。この病になってから上映される自身の湿気た面、これが堪らなく嫌で、毎度、我が家の愛猫に一種の憧憬に似たものすら抱いた。そうかそうか。わたしはこれまで幼少から物を口に運んだり、液体を体内に取り込んだり、といった基本的な行為を幾らも積み重ねて来た訳だが、こうも、ぶっきら棒にしていたとは。いかんせん、申し訳ないと思う次第で、わたしは無理矢理にでも笑みを作ることを強要した。遂にはこうして反射的に、それが起こるようになるまでになった。その努力もあってか、最近はねこが妙にわたしに懐いているように感ずる、恐らく気のせいではないやろうと。

昼の手前、八畳間に明るみが射し込む中、我々はテーブルを挟んで随分とくつろいでいる。

ーそういや、猫ってつむじないんか?

ーそうですね、考えたことすらないです

ねこは、頭とか耳とか背中とか腰とかありとあらゆる大陸全土を探り始めた。夏祭りで鰻ならぬ猫の掴み取りなんかがあれば、ぐにゃぐにゃと長い胴、四肢を曲げて、こんな風に抵抗するのだろうとな、と。

ねこは突如、ピタリとその阿保踊りをやめて慌てて、冷たいのかぬるいのかの珈琲を啜った。それから、ねこは話しはじめた

ーこれから、松戸に行って参ります

ーいつもの人間信仰会のあれか

ーはい、仰るそれです

ーもう一人でお湯は沸かせるもんな

ーありがとうございます…

ねこは少しばかり顔を赤らめた。わたしは続けた

ーいや、湯が沸かせれば実際、殆ど人間と言ってもいいかもしれよ。だってさ、珈琲も飲めるし、即席の類は作れるしな

ーそうですね…でもつむじが、少々、欲しくなりました。

ぼそりと小さくねこが呟くと、彼は玄関からそそくさと出て行った。わたしを目指すねこ。ははは。取り残されたわたしは伸びをしながらカーペットの上で横になった。わたしはわたしが寝っ転がっている様子をまざまざと、みさせられる。つくえ、その上の珈琲カップ二つ、貫禄のある七味唐辛子、わたし、空のティッシュ箱、コードの絡まった掃除機。タウンワーク

ねこになりたい。わたしはにゃーとおもいきし叫んで、自分の頭を触ってにつむじがあることを確認すると、大分悔いて、泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

まよこーんぴざの命日

三月のある日。

今朝もファミリーレストランに来た。ぴたり開店と同時である。店の自動ドアをくぐると、顔馴染みの店員がにこりと会釈をして、くるりと背を向けると、忙しなく調理場の方へ消えていった。

窓際の席、朝の木漏れ日、この席に決まって、腰を下ろす。鞄を長椅子の自分の身体の横に置いて、そっと目を瞑る。それから幾らか経っただろうか?香ばしさにそそのかされて目を開けると、眼前には円形の黄金に煌めくそれが置かれている。そう、ご存知。これこそがマヨコーンピザである。彼とはもう長い付き合いで、これまでの40数年の人生で最も、長く続いている間柄かもしない。現時刻、早朝6時半。その後流るるように出社する。これが、投球前のルーティーンである。

 

それから2年後の四月、ある日。

今日は時間がない。寝坊である。言いわけがましいのは嫌いだが、年度始めはいかんせん多忙だ。会社に遅れる旨の連絡を入れた、それが呆気なく承諾された。6時50分ファミレスに着くと。あっけらかんとした女子大生の店員が口を開いた

「もう置いてありますが…さめて…」

「いや、もう時間がないから作らなくていい」

窓際の席に、腰を下ろした。プラスチックの筒に伝票が既に刺さっており、テーブルには彼が不服そうな面持ちで、鎮座していた。丁寧にピザカッターで8当分に切り分けると、

間も無く、マヨコーンピザを口に運んだ。

 

それから、三年後の四月のある日。

6時30分。入店。自動ドアを通ってマヨコーンピザを目指した。マヨコーンピザは窓際の席に既に置かれて、テーブルには既に伝票が刺さっていて、そこには¥399と刻まれている。客席を見廻すまでもなく周りには勿論、誰か居るはずもなく。

程なく、マヨコーンピザを咀嚼した。

 

それから、つぎのひ。

朝日に照った窓際。テーブルの上に彼はいた。眩しい、今日は一段と。今日はあの白髪交じりのあのおっさんに一つ、報告することがあった。改名。彼はミックスピザに改名したのであった。細木数子にそそのかされたのではなく、自らの意思で。

時計を見た。6時50分。何年か前、いつだったか、一度だけ待たせた事があった。それがいつのことやら、思い出せる訳もなく、そんな事を、考えた。