悲劇のトマト事件

これは喜劇ではない、悲劇である


何もかもsmoothに事が進む、勿論挫折くらいはある。ただ、それが津波のように畳み掛けるように自身に押し寄せた経験は私には見覚えがなかった


必ず、悪事のすぐ裏には何かが、都合の良い、何かが必ず潜んでいる


そういう風に、人生は、そういうものだと思ってきた


社会、人、家族、全ての集合体…生命は何時も忙しなく外界から受け取ったものを排出しそれを維持し、運営している


だから、その考えそのものが間違っていたのかもしれない。常に生命体は順風満帆ではなく、不安定でグラグラで今にも崩壊しそうな、そんな状況でも問題なく、営業存続できるのかもしれない


瑞々しいトマト、潤い、艶やかな、このトマト


ただ、私は一向に羨ましいとは思わない


そういう無神経な考えが、その発想の源泉が、私を幸せたらしめる何よりの証拠であろうか

最近というのも、雨の存在を忘れていた。本当に綺麗さっぱりに。上から水が滴り落ちてくる現象、そんなものがこの世には存在したなという具合


思えば、昔わたしは雨が好きだった。雨がすきというのは正確ではないかもしれない。むしろ晴れが嫌いだった、という方が適切だろうか…









毎週金曜の夜、お人形さんのようなお天気キャスターに殺伐とした視線をぶつけていた。この女から発せられる言葉は死の宣告かそれとも解放令か…土日を部活の試合で潰されたくないと祈る当時中学生の私にとって、毎週訪れるの緊張の瞬間、恒例の行事だった


或る金曜の夜、夕食の時分、私はさりげなくテレビをつけようとリモコンを探していた。母は作った料理を丁寧テーブルに並べ始めた


味噌汁を運びながら母は言った


「土日は天気悪いみたいね、お布団今日干して正解だったわ」


この瞬間、私はこの込み上げてくる嬉しさを必死に抑えた。そういう風に生きてきたから。母に悟られてはならない。決して


稲妻の如くこの全身を駆け巡る愉悦により、数秒間身体は麻痺し、もはや身体の制御が効かない。


この喜びは何か行動として、なにかに、形として昇華されなければならない。母に私の愚考を勘付かれない範囲での…


私は急いで自室のベッドに飛び込んで、何度も小さくガッツポーズをした。それは本当に絵に描いたようなガッツポーズだった…






気が付いた。意識が、ふと浮上してきた。そんな感じだった。夕食は食べずに寝てしまったらしい。わたしは真横にあるカーテンから出る一筋の木漏れ日を確認した。しかし、さしも格別驚かなかった


晴天だった。すんなりとこの卑劣な現実は、私の中に入り込んで、何事もなかったように素早く浸透し、溶け込んだ。下の乾いた路面を走る車のエンジン音だけが、やたら不自然に私の耳の中で響いた。


冷え切った昨日のおかずを口に運び終え、いってきますと一言、家を出て行った


母は満足そうに、いってらっしゃいとそれに応じた

基本的に

blogを始めて、兎に角楽しいのがアクセス解析


単純なアクセス数をみたり、どの地域の方が多くアクセスしてるとか…どの記事にみなさんがどのような評価を下すのか、わたし気になります!!


僕が今まで書いた記事?(あれは何と呼ぶべきか…)の中で一番反響があったのが、浪人の話です。正確には、浪人というワードは全く話の核心部には関係ないのですが…


わたしが書いているのは基本的にその日に起こったことです、肝要なのが"基本的に"です。正直、わたし自身の身に起こる面白いことなんて年に一回、二回その程度あるかないかです


それは私という人間のアンテナや、センサの精度が悪いとか、人間的な魅力が欠落してるとかそういうことと勿論関係なくはないでしょうが、ぱんぴーでは普通に生きてればまぁそんなもんでしょう


ですから改変します。色々いじって、こうだったらな、ああやったらなぁと。勿論、理性の範囲内で

トリプルチーズバーガーを食べました

津田沼の駅を出る。私はマックに吸い込まれた


長蛇の列、まぁ土曜の昼ならこんなもんか、と思いつつ並ぶ


しかしこれは明らかだった。列の流れが全くと言っていいほど皆無なのだ


私は身体を列から乗り出してレジの方を見た


先頭には一人の初老の男。


店員「ですから、今だけダブルチーズバーガーがお得のトリプルチーズバーガーになるんです


「いやだからわしゃ今日はダブルチーズバーガーの気分でな


「それではダブルチーズバーガーで宜しいですか?


「そのあんたの言う何とかチーズバーガーとは
なんじゃ


「通常のダブルチーズバーガーよりお肉とチーズが一枚多いんです…


「それを先に言えい馬鹿やろうが全然得じゃないか


「申し訳ございません、それではトリプルチーズバーガーに致しますね


「少し待ってくれ………やっぱりダブルチーズバーガーで頼む


正直、なぜこの男が最終的にダブルチーズバーガーを選択したかは私の知る由はない。


トリプルチーズバーガーという物量に単純に恐怖したのか、それとも新参者を受け入れる器が用意出来なかったからか


私は何の迷いもなくそれを選択した

悪魔の実

常にテーブルの真ん中の洒落たバスケットに無造作に置かれているその悪魔


可愛らしく少しひしゃげた球状、柔らかさ、手にfitする安心感…





私は珈琲を飲むため、ティファールで湯を沸かそうと思い、慣れた手つきで浄水を入れセットし電源を入れた。自室に戻り卒論に向き合う


ほんの1分程度、直ちに沸騰を迎える。もう一度席を立ちキッチンに向かう


その時である、悪魔の囁くのが聞こえてくる


その囁きの方向たるはよく分からないが、ただ、その囁きに対してあまりにも私自身が無防備で従順であり、さも自然にその主たるに導かれてしまう


それがあまりにも自然過ぎて、それを体内に取り込んだことすら一片の記憶に残らず、特別それについて考えることもなく。あの悪魔の洗脳を受ける周囲の時間は綺麗さっぱり切り取られてしまう



夜になり、流しで洗い物を終え、その黄色の皮を処理しようとした時にようやく、ようやく私に実感というものが訪れる

パンの名は

手包みクリームパン
手包みあんぱん
手包みカレーパン
手包みメロンパン


このカフェのレジ横にズラリと並ぶ。当然の成り行きと言えば、当然であろうか?確かに、


クリームパン


だけではシンプルすぎる、主張が少ない


手包みという形容詞から暖かく優しい印象を感じさせるだろうか?機械官僚的システムでなく人間的有機的不均一自然感を。そこで何か新しいのを提案したい


これがクリームパン
これがあんぱん
これがメロンパン




これが暇人

浪人はしないほうがいい

大分、これまた昔のおはなし


私が浪人を覚悟した時親父は言った


浪人はしない方がいい


別に平易な言葉かもしれない。今になってみれば、当時の親父が言いたかったことはわかる。勿論、私はその当時はその深い所を理解出来ていなかった


ただ、その意味を理解出来たのは年月月日が経ち、熱が冷め、雑多な経験を積み、高台に上りそこから街並みを俯瞰した時であろうか


歳を取るということはその分多くの経験値を得る羽目になる。羽目になるという表現はある意味で適切だと思う


経験値というのは厄介で、多様な悪しき未来という解を熱心に白塗りのスクリーンに投影し、浪漫の溢れる薔薇色の世界はスクリーンの外に捻じ曲げられてしまう


当時、親父は自分の経験値から悪しき解のより少ない方向に私を進めようとしたかった


ただ、私も同じであった


高校を辞めた生徒にも、やれやれ高校ぐらいでろ、せめて高卒認定ぐらい受け取っておけと散々説教したり…


気付いたら私も経験を元に打算的に物事を捉えるようになっているではないか?

GACKT愛人が首吊り自殺未遂

GACKT愛人が首吊り自殺未遂


GACKT?愛人?首吊り?自殺?未遂?


車内広告の情報密度ときたら


中吊り広告の紙っぺらをGACKTの愛人の首に見立てながら帰る稚拙を想像をしていたら西船に着いた

まりもの嘲笑

大昔、摩周湖の錆びれた商店街で購入したもの


いつも机の上の隅に置いてあるものの、そこから放たれる彼らの存在感は余りにも微弱で、もはや感じ取れなかった。彼此一年以上、いやもっとかもしれない。気にもしなかった


購入したときは、店のおばちゃんから成長するとこんなにデカくなるんや!と落ち着きながらもやや興奮気味に言われ、丸々した拳くらいの毬藻を見せられたのを今でも憶えている


久し振りに毬藻をじっと眺めてみた。うーんしかし何も起こらなかったという具合。多少昔より毛がツンツンしたような?気がしなくもなくもない…そもそも、以前のこの毬藻がどういう状態で存在していたかすら記憶の断片にすらない


兎に角、あのおばちゃんが言ってた通り毬藻は成長はするのだろう!そういうことにしておかなければ何だか毬藻に申し訳が立たない気がした


そんな私の思いでさえ、どうでもいいという風に二対の毬藻はユラユラと陽の光を浴びた小瓶の中をただ、漂っていた

研究棟トイレの謎

研究棟一階広間


その一番奥の通路近くにそのトイレは鎮座する…


私は研究棟の広間から繋がる細い通路を二回くねった


そこには特に何も無い、極平々な空間。左手に洗面台、右手に三つの小便器、左手奥に二つの個室。たったそれだけ


私の画角にその空間が収まると、刹那それが始まる


ガチャン、バーン、ドン


奴が左奥の個室から出てくる。わたしはこの人を"奴"と呼ぶ。多分同じ学科なのだろうか?ただ少なくとも同期ではない。友人が少ない私でも流石にその程度は分かった。


一度だったらいい。そもそも一度だったら"奴"とか愛称でもないが、そんな呼び方はしない。もう数回この光景に出喰わしている。まるで私がトイレのあの空間に足を踏み入れた瞬間、赤外線センサか何かが感知して出てきているかのように。


別にこいつがただの便秘とかで通っているだけで確率的に出会う可能性が高いというのも考えられた


しかし周りの人間に奴の特徴?らしきものを説明して聞いたところそんなん知らんという回答だった


ただある時、私が考えるに奴という人間は恐らく単一ではなかった。多分、奴の中身は複数なんだろう。そんな気がした


実際、すれ違うあの至近距離で奴の顔を直視したことは無かった。それは私が小心者ということも関係してると思う。全体のボンヤリとしたふやけそうた印象。それを幾度の経験、複数の奴から紡ぎ合わせて合成した像が私の中に存在する"奴"なのだろうか?


この化学系研究棟の普遍的な男の肉体に、私の脳が勝手に作り描き出した色を乗せただけのものであろう


恐ろしいことに脳みそは無意識に物語を作ってしまう。それは結構よく吟味しないと見抜けない


勿論、このお話も先程研究棟のトイレに立ち寄ったときに、生産された物(フィクション)であるが