ししおどしのなやみ

涼やかな庭の端で、単調なる動作をその竹筒は受け入れた。

目の前に横たわる自分の使命に忠実なれ、と暗示めいたものを唱えながら己を律する他なかった。

真横の竹筒から渡される冷たい流れを受け取り、ただ耐える。ひたすらにその重みに耐えた後に、屈する形でもう限界です、ぎぶあっぷですよお許し願いましと、崩れて、反動で再び持ち上がったかと思えば、お尻をぶつける天然をかまして、カタンと、渇いた悲鳴をこの庭全体に響かせてやりゃ人様はこれは風流だとか言ってあそこの縁側んとこで、ゆったり流るる時間とやらを恐らくは思って、茶をすすり、目を細めて、さぞ満足気な顔をなさるのである。結構、大いに結構。

鹿威しの使命たるや、それは一定のこの静的なリズムを刻み続ける事である。これこそが人様に風流言わせしめる所以であるわけで。しかしながら、この一定とやらが、明らかにこの深緑の、由緒正しき庭にくっきりと重い暗影をつくっていた。この永遠に連なる等間隔のハードル、一定の動作が、じわりじわりと彼を苦しめた。

一方で、彼は稀代のめんどくさがり、怠惰でもあったから、横筒から渡される水流を受けて閾値に到達したら屈する、というこの一連の動きは単純であり、何はともあれ一切の考えはいらないわけだし、水の重みの奴隷をやればいいわけで、ある意、ほぼ不労所得に似た感覚。そうすれば、人様に風流だと喜んでもらえる。しかしながら、この脳無し阿保の動作の延長上には、一定、定常という地獄に生ける化け物、あれが息を潜めているわけで。彼はそれを考えるだけでも身の毛がよだつ思いがするのである。

そもそもに、何故に、彼はその化け物とやらをこんなにも恐れるるのか?この感情はまさに恐怖である。はっきりそういってよい。これに立ち向かうにはそれなりの覚悟が必要である。あの化け物から逃れるためなら、彼の怠惰などこの時に限っては些かの問題にならず、ズンズン横の獣道の方に、ぼうぼう茂る草木を分けいってまで入って行くのである。

あるとき彼は、意を決して、己の身に恣意的な力を込めて、たしかに抗った。注がれる水の重みに屈してからも、持ち上がるまいと、そのまま歯を食いしばって踏ん張った。彼自身も、これは流石に、流石に風流ではないな、これはと口元を歪めながらも、ここで気を緩めれば、ご存知、いつもの地獄の千本ノック、ばっちこーい、カキーン、おなしゃーす!を永遠、無限繰り返す、そういう繰り返しに身を呈さねばならぬ。

だから彼は、自分の存在価値を放り投げてでも、これをやめないわけにはゆかなかった。

ぐぢゃぐちゃ好き

「そのときは、まだぼくが死んでるときだね」

と大層大昔、そんなようなことを二十年くらい前の僕はそう言ったらしい。母からそんな話をいつだったか聞いた。「そのとき」とは、まだ私が産まれる以前、すなわち平成五年以前の話を指しているのだろう。

今は随分マシになったけどね、とんでもなく馬鹿な基地外児だったとよアンタは、と、母から毎度のごとく聞かされた。母親談、を引用しまくる私だが、いかんせん自分が阿呆で問題ばかりを起こしていたという記憶という記憶が、一切ないので、しかたあるまし。ひとつだけ、現存する私の記憶を訪ねると、酉(とり)年生まれの私が同じ酉年生まれの爺さんからおまめぇはおれににてんなぁあ、そりゃ酉年だもんなぁおめぇもぎゃはははは、と孫の私の顔を見るたび言うもんだから私はどうにか曲解して、いつしか或る時に、自分はとうとう鳥なんじゃないかと、そう思うに至って階段を怒涛の勢いで四つん這いになって駆け上がってから爺宅のベランダから飛び降りを敢行したわたしは、あえなく、重力に屈して、ぎゃんぎゃん鳴いた。その後爺さんが母親から叱りつけられる様子をみてこの世の理不尽この上なき事を、知った。

わんぱくはさておき、ところでわたしは卵かけご飯が好きだった。卵かけご飯さえあれば、この先も、ずっと永遠、何とか愉快にやっていけると思っていた。卵かけご飯が当時のわたしの世界観だった、少なくともそれに似た何かを形作っていたように思う。真っ白なご飯と鮮やかな黄色卵をぐぢゃぐちゃにして、これでもかという程に混ぜて、交ぜて混ぜた。生きるとか死ぬとか、赤信号とか青信号とか、男とか女の子とか、ブックオフとか駅裏の霊園とか、そういうものも、全てがぐぢゃぐちゃの混沌の最中にあったかと、思う。

 

さいさいさいこ

ふと、思い出したからここに書いておきたいことがある。何が引き金になってこの事について思い出すのか、それは全くわからない。

それはわたしの最も、最も最古の記憶である。最最古。最南端の沖ノ鳥島。自我が芽生えた瞬間とはまた違うとは思うが、記憶の中の一番端っこに位置するこの嫌に鮮明な映像は、多分特別なものだと思う。ただ、同時に、今思い出したからといって、慌ててここに記す必要もないと感じる。というのも、一生あの光景をわたしは忘れないと、何たる根拠もないが、そう思う。おそらくは最期の最期に見るであろう走馬灯PowerPointの表紙の背景絵は、どうどうたるわたしのこの最古の記憶、これが描かれているに違いないと、思う。

ありゃりゃ、と。そんなこんなでまた記憶はどっかに行ってしまった。

いやはや、人差し指をゆっくりゆっくり廻しながら、徐々に葉にちょこん、と乗った赤トンボにわたしは近づいていく。今度こそ捕らえられると高を括ったわたしの油断が指先に伝わったのか、人差し指を回す速度がほんのすこし角張ったというか、箪笥の角のように滑らかでなくて不連続な体をなした。あっ、またしたても、やらかした。走馬灯までには

うなじと直線

流石に蝉は食えんだろうと、思いつつも、でも蝉を口にぽいと放り込んでジャギジャギシャリシャリ両顎を上下に、リズミカルに、小気味よく動かすと、特に蛙の唐揚げのような意外性、旨さもなく、節がある角ばってトゲトゲして尖った脚、硬い甲殻とか鱗のように剥がれて細いくなった羽が上顎にひっついたりして、もう私は、お嫁にはいけないかもしれない。

彼女は蝉の音が降りしきるねっとりした或る夜、Monsterを片手に、研究棟辺りをぽっぽらーほっつき歩きながら夜食、いや、野食にありついた。口の中の不快感、この不愉快な夏の風物詩を一気に胃に送り込むべく、右手に持った細長の缶を口元に持っていき、勢いよくそれを傾けた。もう、空、か。そう思ってから、その辺に缶を放って、カランコロンカランコロンとコンクリートにぶつかって甲高い悲鳴をあげる様子をぼけっと、眺めていた。

身体と脳味噌、精神、心とか、この結び付きがこの液体を摂取すると、緩くなるのを感じる。頭で考えた事、そして思慮の末、それに従って身体は動作するが、その感覚が今はほとんど無いといっていいと彼女は明らかに、感じていた。現に、蝉なんて食いたかなかった訳で 、土中7年、その鬱憤たるやを晴らすべくお腹を震わせながら羽をバタつかせてる油蝉を口の中で咀嚼して、気付いたら味覚が訪れ、間も無く嘔吐した。ぐうぇっと。

身体はは見ての通りぴんぴんしているし、でも思考はぼんやり霞んでて、盆踊り、なんたら音頭が頭の中を駆け巡ったかと思うと、今度は伸び縮みしながら、反芻して、忙しない。一瞬とて気を抜くと、口の中でのあの不愉快な感覚が蘇ってたまらん。と思いながらも、彼女は蝉の味、食感など所詮はこんなもんか、この程度ですか、と、思わなぬ訳でもなかった。

彼女の聴覚は或る音を捉えた。どちらの方角からか知った事じゃないが、バンバンパンパンと耳がつん裂くような爆裂音があたり一面に響いている。なるほど、ね、浴衣、うなじに団扇。研究棟を一歩でも外に出れば花火の見物客に揉まに揉まれて、通勤快速さながらの行列にぶつかる訳で、仕方なく、棟前の非常階段近くに設けられたほとんど腐って馬鹿になった木製ベンチに腰掛けて、ぼんやりと門の外の行列に目を向けた。ほんのりと、彼女に得体の知れぬ生ぬるい、湿り気のある優越感が、背中を這うのを感じた。あの、浴衣うなじは、あっちの浴衣うなじも、向こうのも、ね、蝉の味は知らんだろう、と。あのうなじが蝉を鷲掴みにして、口に放りこむことは到底、考えられんことで、なぜならそれは、蝉の味、味覚にたいする定規をあのうなじ達はなんら持たん訳で、なんなら何も知らずに蝉そのものを不味いものと考える訳である。そりゃ、仕方ない訳で、うなじがうなじたらしめるのは、花火を観たいが為に、あの夏の夜空に映し出される極彩色の煌きを眺めたいがために、あの行列に身を投じてる、至極真っ当、でごわす。浴衣うなじ達は特に意識することなく、欲求に駆られて行列に投じ花火をみる訳で、特に意識することなく、欲求というあの駆動力によって蝉を喰らうというのは、無理な話である。浴衣うなじは、思考と行動とがタコ糸のように真っ直ぐで、直線的に連動する。わたくしは、目の前にただ、蝉があって、なんとなく、蝉を食ったのである。わたしも蝉は勿論、触れただけでも、気色悪いと感ずるのに。ね。

 

 

 

 

ねこしっかく。

 ねこという生き物は、あれは、ね。僕の人生の師匠に他ならない。

 


 我が師匠は人間というものに一向に媚びず、のうのうと、主人の留守の間もそこいらの近所、溝川、コンクリの側溝、工事現場の脇っちょ、小便風味の草むら、それらをぶらついて、腹が減ったらおい主人と、ご主人様ー、御主人様とお得意の撫で声を起用に駆使しながら、さり気無く近寄って、それからツナ缶をせびるのである。

 近々の僕は、僕はというと、恐れ多いこともさることながら、勿論、師からはまだまだ多くの事柄を学べる、いや学ばねばなりませぬが、師からは及第点を頂ける程度には成長したと、存じ上げております。職は断じて探しませぬ。いやでも、まだ精神的な面では何らの、師の境地までたどり着けていないことは、重々、承知しております。妻に対する負い目、そうそう、負い目を感じてしまうわけで、ね。その一物の人間らしい不安が、僕の毎晩の妻へのご奉仕、師でいうところの撫で声ですな、ハイ。妻から明日の千円、二千円ナリの小遣いをせびった僕は、なぜかこう、なんかね、両腕をさすってね、堂々としていられらくなってね、柄にもなく妻に先に風呂を譲ったり、食器の類はウォッシャーに入れたりね。ついでに洗濯物もドラムに仕込んでね。玄関の靴も、こう整えてね。先をしっかり。えへ、ありゃ。あれ?


 あれ?こりゃ及第点ですかなあ? お師匠さん。


 その玄関に鎮座するブロンズの猫は、終始、無言を貫いた。

 

お誕生日!

 Mさん。あなたはお誕生日を迎えましたね。24だそうですね。ええ、僕も24です。 24と言ったら、まだまだ人生永いような、そんなような気も起きますが、そうでもないみたいです。

来年から我々は愛知県で苦楽を共に生きなきゃならんわけで、どういう訳か、ね。僕が愛知県とか名古屋とか、特に刈谷という言葉を耳から招き入れる時に何を想い出すかって言うと、アレです。YDA青年とキャンピングカーとパスタのあの濁りきった茹で汁です。これからのワードが、僕の脳内の刈谷SAの所にしっかりタグ付けされていて、ほとんど無理矢理、括り付けられておるのです。だから、これから住むべく刈谷は、白濁した塩味の強くて生温いお湯を僕に連想させます。鍋の底も見えぬ、あの茹で汁を。

これからの、決して永くも無い人生を、しかも茹で汁のたっぷりとした、鍋に飛び込むような人生を、きみとなら、何とかやっていけると、根拠も無く、そう思わずにはいられません。

 

 

ポンポコ夫婦

君と一緒にいると小説の中にいるみたいだ。たぬきうどんを啜りながらさっき妻にこんな事を言った。なに、とその嗅覚が何かを察知したのか明らかに妻は訝しんだ。なになに急に、だって、だってさ今の今まであんたさ、アンタのそのチンポジが左から真ん中ドストライクに移行しつつあって、で、その原因がどうせすぐ飽きるんだろうけど土日返上で馬鹿みたいに躍起になってやってるトレーニングによって然るべき場所、背筋、腹筋、広背筋、股関節あたりの大御所がむくりと覚醒して、寝る時の姿勢が完全な仰向けに強制されたからだみたいな力説してたよね?アンタさあわかる?チンポジが云々の話をしてた人がね、唐突に、あっけらかんと夫婦の核心に迫りそうなさも意味有りげな事を口走ったらさ、驚くよね?しかもさ、そもそもね、FM市川で流れてる女子十二楽坊バックにたぬきうどん食べながらチンポジの話する?しかも、たぬきうどん食べてるんだったらね、そうね、例えば平成狸合戦ポンポコとか、あ、違う、ポンポコ作ったあの高畑勲監督のそのアニメ製作に対する想いとかさ、そういうのを語りながら、ね、アニメ表現を果てし無く追求し続けた彼の想いと一緒に、わたしはこのおうどんを美味しくいただきたい訳。と箸を止めた妻の主張は多分そんなところだろう。こうなってしまっては、妻のその眼を見てわるかった、わるかったとよ素直に謝罪せねばならないわけで、ただ言われっ放しは少々癪に触るのでぼそっと聞こえぬ程度に反論しておくと、毎週日曜日昼に我々は決まってたぬきうどんを食うわけで、平成狸合戦ポンポコの話はとうの二、三週間前に我々夫婦の議題として既に卓上に上がっており、狸合戦ポンポコからあらぬ方面に我々の会話は飛び火していき、詰まる所、行き着く先は何時もチンポジで、それが我々の知性の限界、到達点であるように感じたという具合である。だから、わたしは密かにというか、こういう与太話に蹴りをつけるべく画策した結果として口から出てきたのが、我々夫婦の新たな議題となっている冒頭のあの言葉である。でさ、と妻は口を開いた。明らかな嘲笑を含んで。で、あれ、なんだっけ小説だっけ?なに、あんたじゃあこの今までの私たちのやりとりにさぁ、ブンガクテキな要素って言えばいいのかね、そういうの感じてるわけ?卓上に転がるボールペンを持ってカチカチ鳴らしながら、内心というか、わたしは歓喜した。ブンガクテキ、うふふむふふ。文学の意味するとこなんか知ったこっちゃないが、未知なる得体の知れなぬ響きを含むこの言葉は、我々夫婦の週末を何処に誘うのだろうか?わたしは無意識に股間のほうに手を持っていきながら、その楽しい終末を想ったのであった。

てれびをみました

試してガッテン、ウィンブルドン。そういうものを観ながら僕は1日の残りを過ごした。試してガッテンというTV番組は、ご存知、主に健康食品関連のものを片っ端からためして合点していく訳で。それを観て承知したと言わんばかりに、合点した主婦達は今晩の頭の中で描いていた晩御飯をちょっとね、変更!お風呂入っちゃったけど慌ててドライヤー吹かしてスーパー凸して鰹節パックを奪取、で、もう食卓に乗ってる冷奴とかサラダとか味噌汁にとりま鰹節を、さっき合点しといた鰹節を乗っけて、万事今宵は家族の健康は約束されたし少なくとも悪夢を見る事は無いだろうとホッと胸を撫で下ろすわけである。合点した主婦は置いといても、今夜の鰹節をただサラダ油の中に突っ込んで作る鰹節油なるそのまま東みたいなネーミングセンスの、鰹節油はさっそく僕もためしてみましたが、中々、おつです。ウィンブルドンも熱心に観てる(現在進行形で)のでふが、流石というか英国紳士のスポーツだなと思ったのが、打ったショットがネットの上のとこにちょんとあたって相手コートに入ってしまうことがそこそこあるじゃないですか?その時は勿論、ショット打った側のポイントになるんだけど、ちょこんと肘から上をあげてすまんみたいな意思表示をして、しかもやれやれ夏の湘南の陽射しは鬱陶しいみたいぜみたいな絶妙なしかめっ面までをサイドメニューとしてサービスする訳で。結果のみがシビアに要求される大舞台で、表面上だけでもそういう御作法があるのはね。

百足

人はよく吐き気を催す嫌悪感を示すものについて表現するときに、生理的に受け付けない。というような類の表現をするかと思います。その物、ないしはその人、対象への嫌悪感が不明瞭で、ぼやけていて上手に説明出来ないときの逃げ道としても、我々はこの表現を少しばかりお借りするのかもしれません。その生理的に拒否された側も、その場合、仕方がありません。おそらくはそれは日々の努力とか時間とか鍛錬とかが解決し得ないのですから。金目のものが詰まったいかにもなアタッシュケースを紳士服に身を包んだムカデに贈呈されようが、わたしの肩甲骨の辺りや湾曲した腰辺りをその百本だかなんだかの脚でグリグリねじねじされようが、わたしは百足を生理的に受け付けることは、到底無理でしょう。それは叶わないわけです。そういう意味では百足に対して若干の同情をしない訳ではないのです。

さて、私が今、現在こんな話を取り上げたのはそんなに気まぐれなことではなく、空想や妄言めいたことでもありません。日曜日、炙ってほんのり溶けたマシュマロみたいな甘い午後に差し迫る、暗雲、恐怖、いや事件といって殆ど差し支えないことかもしれません。ものごとは結論から取り上げることが肝要であるとわたしはある種心得ていますので、申し上げますと

 

消えました。死体が。ただ一つの脚を置いて

 

これこそ妄言と言われても幾らの否定もできませんが…正直に申し上げます。例のあのムカデに関して、昨晩の辛口のカレーと消臭剤とが入り混じったわたしのこのプライベート空間、ピッチ中を縦横無尽に駆け回っているという疑惑が生じているわけです。

九十七足として。

いや、確認しておきますが、その例の九十七足君をひっぴがえして、その白い腹から伸びる生足を一本一本丁寧に、赤子をよちよちあやすかの如く、そして紅白玉入れの如く数えた訳では、勿論ありません。そもそも、百足という生物が100本脚が生えているなんて、そんな安直な発想の元にこの件に関して、思考をしていいのでしょうか?いずれにせよ、百足の脚の数が千だろうが万だろうが、幾らだろうか、この際どうでもいいのです。大事なことは、この事件、彼が、死体となっていた彼が一本の脚を現場に置き去りにして忽然と消える、フローリングの床から。この事件が、今週だけで3回も起きているという事実です。

そうすると、彼の仮の脚の本数が残りの命の数を表していて、かつです。生理的に受け付けられぬからwikipediaで生態というか生物的な情報を得ることも私にはままなりませんが彼が仮に大きく見積もって、百の脚を備えていれば、あと九十七の命があるわけです。

そうすると、わたしはあと九十七回、もっと少なくて済む可能性も存在しますが、彼が何処か白い壁からにゅるにゅる左右に身体を揺らしながら出現する、わたしはティファールで湯を沸かし、えーーいと熱々のとっておきを彼にお見舞いして、あの長い胴体がくしゅんと丸まって要介護でもう店仕舞いする古本屋の爺みたいな背筋で仰向けになって絶命する瞬間を見送るという一連のイニシエーションをせねばらならないのです。それを考えただしたら、わたしは絶望しました。絶望ってこういう時に使うものかもしれません。だって、わたしの安息の地、そこで寝起し過ごすこの場所に、その平安を脅かすような存在がひっそりと息を潜めていて、その彼は殺されてもなおも立ち上がり、しかも残りのライフは97もあるわけですから。もういっそのことここは腹を決めて、次回の殺害の際にはお得意のティッシュを三枚でも何でも持って構えて、びゅっと掴んでぽいと捨ててしまえばいいのかもしれませんが…今でもそれはわたしにゃ到底できません。これはあの生理的に受け付けないという当初のものもありますが、なんとなく、この絶望の中でも今となってはかれも愛すべき同居人である気がした、というのもほんのりですが、あるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えんとりーなんぼー2

名言ぽいぽい

 

かのアインシュタインは言いました。「人生とは自転車のようなものだ」と。その名言をきいたならば、我々はその意味を考えます。「自転車→漕ぎ続ける→それをやめたら転ぶ」と。当たり前ですが、一見突破なことに聞こえてもしっかりと論理性を持っています。だからこそ、我々の中に名言として深く刻みこまれるのかもしれません。

 

このゲームは「頭」と「お尻」に類似しない単語を配置してから名言ぽいのをつくって、他の人が頭とお尻を繋ぐロジックを推理します。

例えば、Aさんが単語が書いてあるカードを手札から二枚出します

頭→イケメン、お尻→勉強

そして文を宣言します

「イケメンは勉強するな!」

そうしたらば、Aさん以外の人がその二つの言葉繋ぐロジックだったりニュアンスを推理します。(早押しかなんか)

 

非イケメンは勉強するしか生きる道がない→イケメン様は非イケメンの勉強というステージでの貴重な枠を奪わないでくださいお願いします。