死と作品

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昨日、あれが死んだ。その死は、予め、定められていたものだった。が

twitterをみる頻度が以前に比して激減し、トレンドというものに、世間に背を向けるまさに情報弱者と言わんばかりの私が、このワニの話題に触れることになったのは、お嫁様のアンテナのお陰とでもこの際言っておくこととしよう。

世の人は、皆、このワニに熱視線を注いでいる。リツイートも150万だかを超えている。

わたし自身、まだこの作品に触れていないが(そのうち1日目から読もうと思う)、何がここまで世の人々の心を動かしたのか?電通案件だとか、金の匂いがする等の暇人オタクツイッタラーたちのまどろっこしい議論は一旦置いておいて、この作品の死の扱い方・捉え方に焦点を当てた方がよっぽど有意義で楽しい。

 

私は“天元突破グレンラガン”(熱血ロボット系アニメ)の第7話で主人公の兄貴が殉死すること。“タッチ”の完全無欠野郎の弟が交通事故であえなく、無念、天に旅立つこと。これらの事象を把握した上で、それらの作品に1話から順に触れていった。(その死が有名で一人歩きしていたため、わたしもしっていた)

物語を読むにあたって、主要な人物の死を知りながら其奴の言動に着目するのはもう、それはそりゃ神のような視点に他ならぬ何者でもない。

なんというか・・・摩訶不思議な気分である。

物語の中で扱われる死は、通常、刺激が強すぎてビリビリ痺れてしまうような、強烈な作用・意味を持っている。作者は不用意に、無意味に自分の創造した人物を殺すことは、ほとんどない。とてつもなく大雑把な例を挙げるのならば、あるミステリー小説を思い浮かべると、「脱出不可能な無人島に唐突に招かれた客人たち、次々に奇異な仕掛けで殺められる・・・」その死は犯人の足取りを追うヒント、一つの大きな意味を持った一ピースである。(もちろんホラー的な要素の大きい作品には主要人物であっても死亡フラグを回収するだけで特に何も残さずに逝ってしまうということはあり得るが、それも読者に恐怖感を与える、という意味を背負っていると思う)

そういう観点から考えると、死に向かう人物の、時系列的な死の周辺にどんなものが待ち受けるのか?どんなメッセージがあるのか?というものを我々読み手は意識せざるを得ないし、底知れぬ興味を示すのだろう。

“天元突破グレンラガン”という作品は、全50話のなかの先ほど話したこの第7話が大きな分水嶺となりうる。それは兄貴の物語から義弟へと、その意志のバトンが渡された瞬間でもあった。7話以降、主人公である弟のシモンが大紅蓮団のリーダーとして皆を強烈に牽引し、ゆくゆくは宇宙の片隅で、銀河系をフリスビーのように掴んで投げ合い、この宇宙の旧いシステムを文字通り、気合と、そして気合と気合のみで天元突破してしまう。

 

一方のワニはどうだろうか?全100話のうち最終局面の100話目で、このワニの死が訪れる。最終話での死は、天元突破グレンラガンのあの兄貴の死のように、物語の後に続くもの達に意志を受け継ぐわけではない。それならば、このワニの死は何を意味するのだろうか?われわれにどんなメッセージを与えるのだろうか?

ここでわたしが白状せねばならぬことの一つに、わたしはこの“100日後に死ぬワニ”をほとんど読んでいないという点である。よってわたしにはこのワニが、遺したもの、ワニの物語の線上の未来に残したものではない何かに、我々に直接的に与えられるかもしれぬ贈り物に、触れる資格なぞ到底ないのかもしれない。

しかしながら、一点、不幸中の幸だかわからないが、100日目のみはTL上で目にしている・・・

車に轢かれそうになったヒヨコを救って、彼が犠牲になった。

という話の顛末だったと思う。いや、たった今、自分で文字を打ち込んで思ったのが、これも"グレンラガン的な死"と同様の構造である、という風に見ることも可能であるかもしれない。ワニ(兄貴)→ヒヨコ(弟)と捉えられるが、グレンラガンと100日後に死ぬワニの異なる最大の点は、死んだ後に話が続くか否かである。“グレンラガン的な死”は死の先に物語の続きが存在し、明確にその意志の引き継ぎがなされるが、"ワニの死"では、アフターストーリー、すなわち、ひよこがワニの正義なりの何なりを受容し、この世の悪を駆逐する、といったような続編ものが存在しない限りにおいては、我々の想像の中に、"ワニの死"によって発生した意思やメッセージめいたものが生き続けるのであろう。

 

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わたしはここまであれやこれやと、かなりまどろっこしい一切の酒の肴にもならぬ毛ほどもどうでもいい論を展開してきたわけだがワニの死によってもたらされたものは、物語が終了しますよという合図である。もっと冷酷な、興醒めな表現を使うなら、“彼の死の役割”は、この物語、彼の日常をポップに描いたであろうこの物語の終焉を告げるホイッスルであり、死という厳正で、平等な主審によって裁かれることによって、我々が逆らったり介入できる余地はないのだ。

 

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もう真夜中だ。窓際から外の街頭の光がわずかにわたしの手元を照らしてくれる。親愛なるお嫁様はお布団を両足でブルドーザーのようになぎ倒しながら、鼾を立てている。

わたしははてなのアプリを開く。そうすると、下書きが初めに目に飛び込んだ。過去のわたしがワニの話を書いたようだ。なんとも、わざとらしい呆気らかんとしているが、というのも、記憶にあまりないのである。不思議なもので。

自分の書いた文章を読むのは、あまり気が進まない。そりゃそうだ。自分を客観視するというのが、耐えられないのだ。自分という存在を、他社との相対的な競合の最中に、資本主義的なテーブルに載せることは相当な恐怖である。そういう意味でわたしも可愛い可愛い自国を、保護主義に奔走しているのかもしれない。

ワニの話に戻るが、上で熱心に語っているようだが、おそらくわたしはワニの物語を最終的には一個のコンテンツとして、この好きにも嫌いにもなれない物語に何らか、物申したいのかもしれない。