山本の日記

愛知県在住のエンジニア!とにかく異様にお嫁様が大好き

中秋名月後、ムール貝浮上

ムール貝というものがぷかぷか宙に浮かんでいる。何故浮かんでいるのか?不明、不名誉、時期尚早、南無阿弥陀浜崎あゆみ

これというのとも、せいぜい、私が酔っ払っているから浮かんでいるのか?浮かんでいるから、私は酔っ払っているのか?となるからに、ムール貝が浮かんでいるという事情を無かったことになれば、私はかように、酔っ払いの木偶の坊たるやをやらずに済むのであろう。

にしても、恵比寿は至高の最上で思考を略奪し、至高を届けるからに、至高だ。異論はない。

が、腋臭が、問題である。至高の代償は腋臭である。近々の腋臭はテストステロンの増大ではないらしい、どうやら。筋トレの成果がテストステロンとやらを介して露見したと、我ながら鮮やかな勘違いをした。酒である。近々、酒にハマっているのかもしれない。飽きるのも時間の問題かと思えば、少しばかりか切ない気もする。飽きる事を恐れてはならない。ムール貝を浮かせるのは飽きた。ぷかぷかしてなくていい。じっとしていてくれ。そんな糞魔術は使えんで結構。

いつもお世話になっております。

いつもお世話になっております。

この書き出しが私の頭を日中の、仕事の同居人である。この書き出しが、冒頭であり、事の始まりとなり、接頭句であってバッターボックスに入るほんの直前の、屈伸運動を丁寧に行うイチローそのものであり、私が愛して止まない日々の定型句である。

はて、なんならば、私という人間はこの定型句の意味を寸分違わぬ精度で理解し、適切に運用をできる人間であるか?ことこれついては、疑問を呈さざるを得ず、何というか私は、全ての内容に対して機械的にこの句を配するのだから(人の真似をして)、私の采配について、奇怪だとか、阿保だとか、無礼とか、そう言った目を瞑りたくなるような感情を相手に抱かせてしまう、そういった可能性は拭いきれない。

もし仮に、そういったものが絶えず各地で頻発怒涛、間欠泉の如く吹き上がり、社内社外問わず、方々、顰蹙を買うようであれば、私はこの句から早々、足を洗い坊主で出頭したい。覚悟はとうにできているのだ。ただそれは私のこの句の運用に対しての、これしきの意見、それも客観的で、忖度のないピュアで八ヶ岳の夜空の如く澄んだ意見が私に届けば、の話である。この世の界隈では、タワマンから目薬、二階からほにゃらら。要は、ムリだと言いたい。

ただあくまでも想像の範疇で、私のいつもお世話になっておりますの運用が、全くもってして不自然ではない、こう評される可能性も往々にして存在するであろうから。というのも、この初句の後に続くのは自身の対応の鈍さを詫びるものや、無礼の詫び、対応ミスの詫び等が延々、続くものだから、いつもお世話になっておりますという、身を縮こませる、肩身の狭い、婉曲的な恐縮の形、この手の意を発しているのであれば、いやはや、親和性はあるのではないか。

そうとなれば、私は何の躊躇もなくこの句を乱用、いや違う、活用することが出来るわけで、相変わらずの幸せが私の手中に舞い戻って来てくれると想像すると嬉しくて、目に涙が潤って、いますぐにでも、何卒、宜しくお願い致します。

山本

 

 

 

土井善晴の一汁一菜的思想

最近というのも、大いに、味噌汁に力を注いでいる

我が家の晩餐に並ぶ品はといえば、味噌汁と白米、以上、たったこれだけだ

これは単に、従来の一汁三菜的思想を打破すべく爆誕した土井善晴の一汁一菜を盲信しているためで、それ以上でもそれ以下でもない

兎に角にも、己の全精力を目の前の味噌汁に捧げよ、と、土井善晴が人類に求めて止まない一途で純情なる願いが感じとれる.

肝要なのは、一汁一菜という宗教は多忙に対して潤浸する麻薬でも、蜘蛛の糸でもない.そこに彼の一切の妥協はない

 

この土井善晴の作り上げた思想も今後も続くであろう食卓史のほんの序章に過ぎないのだろうし、まだ進化の過程であることはほぼほぼ間違いない.

ほんの何かが発端となって、ちょうどプロテスタントが分離したように、ベクトルの異なる歩み、派生を見せるかもしれない.

ただ次の動きとしては一汁一菜から一汁もしくは一菜への変遷だろうか?

明確に打ち出されたこの導を、開拓していきたい所存.

 

 

 

 

暇×夜=駄文

アルバイト募集中

 

私の眼前にあるのはセブンイレブンで、窓に張り付く典型ゴシック体がいかなる主張を繰り返しているご様子で。ガラスの向こう側に映るATMとそれを操作する髭が妙に絡み付いてマッチしてるような。

アルバイトの感覚、まるっと、すべて覚えていない。全ては言い過ぎかもしれないが、普通に記憶はあるか?、アルバイトが、勤務中の態度、勤務中の思考、勤務中の空調、勤務中の周囲、物、机、トイレ、芳香剤、ウォーターサーバ。

温もりの亡者、車止めストッパーの上でごろんとしているにゃあも、わたしの徒然劇場で共演を果たしてくれた、ありがとう。

色々忘れても、またにゃあはすぐ現れるかと。

 

水島弘史の冷製パスタが冷静に少なすぎる

水島弘史という男をご存知だろうか?

知らぬ人のために一応、説明を挟んでおくと、彼は世にいうところのシェフである。

シェフというのは、顔がつるんとしていて、肌は紅く焼け、そこに白い衣を纏い、白い歯を見せ、うまいものを作る人間である。

これが私の中でのシェフであり、異論は大いに結構だが、特に異論はないであろうし、そういうことで、だ。

しかしながら、私は自身の提唱するシェフの定義の胸ぐらを掴んで、敢えて地面に叩き付けてみようとおもう。そう、うまいものを作る人、これにわたしは、異論はことさらないが、意義を申し奉る候う。

私は水島弘史というシェフが、私のシェフ史上最もシェフであり、私のシェフという観念像を、永年守り続けたそれを押し退け革命を起こした。私が何を言ってるか理解できんとか、取り敢えず落ち着いて下さいとか、思うことはたたあるだろうが。

彼はそういう意味で、大いに異端なのだ。

二人分パスタが、60gなのだ、角田信郎のような重機と風格をただよわせておきながら、か細いのだ。

一人前が100gではないのか。

 

白黒紅細厚、シェフは矛盾らのサラダボールであり、今後も新たなシェフを像を更新すべく、私は足繁くネットに重鎮するかれらのレシピ、魂を夕食という形で復活させるとことを、終業後の楽しみとして生きていく次第である。

 

 

4/14

月曜朝、曇天を通り越した、雨。雨。

雨の日はちょっとロマンチックな気分になるとかいう洒落た女性も世間には幾らか、一定数はいるとわたしは聞いたことがあるような、ないような・・・

少なくとも、こと私に限っては、物事をいかに肯定的に捉えようにしても、ただの貧困一文無しをゼロベースと捉えられようとも、雨から恵みは得られまい。

ついでに言っておくならば、私はこの愛知県という地域にやってきて、以前に増して、雨がより一層、窮屈な対象になったことは認めざるを得ない。

というのも、彼らは雨に濡れたことを、「ベタベタ」と表現した。

これから連想されるものは、市民プールの脱衣所の、あの例の床であり、はたまた、風呂場の排水溝を塞ぐぶ厚い黒塊であり、天ぷら後の、あの忌まわしき喚起溝であろう。

しばしば、三河弁話者特有の「〜もんで」を聞くや、愛知へ移住してきた民たちは散々、飲み会等でそれを話題にしもてあそぶのだが・・・・我々はそんなことに構っている暇はないのだ。むしろ、「〜もんで」程度、寛容な心を持って受け入れるべきであろう。(わたしもすっかり定着した)

 

話を戻そう。そう、わたしが話さなければならぬことは、方言の話ではない。ただ、何を話そうことだか、忘れてしまった。ワーキングメモリ3のニワトリ。もう、さらに三歩動けば、思い出すという可能性にかける。そのまま忘れてしまっても、正直、全く構わないのだが。むしろ手間が省けて、よい。

 

仕事から帰るや、わたしは今朝自分の頭を過ったことを朧げに、思い出してしまった。これは、わたしとお嫁様の、側からみれば大したことのない些細なことかもしれなかった。

 

この憎き消失すべき記憶は、やはり、なのか、雨を引き金にして呼び起こされた。

今朝、雨とお嫁様はぴったり重なった。

雨は、有識化の中では、手に届く生活のなかでは、人間に面倒を授ける存在だが、意識の端においては、恵みの雨を与える。生に不可欠、無くてはなるまい。

お嫁様も、確実にわたしの無意識に作用し、日常に落とし込まれ溶け込んでいるせいで実感としては顕れないが、何かほとばしる、強く作用するものが必ずあるのだ、そう思う。

 

その力は、お嫁様に対するわたしの信仰めいたものかもしれない。その力は、少なくとも、わたしが半ば自己陶酔・自己満足的に振るい文章を書くという自己幻想をゆうに越えるであろう。この力だけは自己幻想の触媒としてはならない。

窒息

日々の日常というのは、こうも単調なのかとため息をつくことも、しばし。

いえに帰るや、わたしは手を洗いアレクサに部屋の電気を付けてくださいと、深々お願いをした。パッと灯がともる。わたしはソファに腰を下ろす。何のことはない。手慣れたものだ。

 

時として、日常という者は、可愛いおっとりとした面持ちを我々に晒しながらも、わたしの首根っこを掴むや水の張ったところに、決して抗えない力で押さえつける。

げぼぼぼおおおお、おぼu。DAZUKEDEGUDASAあああああい!!!!!!!!!

わたしは苦しゅうこと、苦しゅうことこの上ない。なんか知らぬが溺れている。こんなに可愛い娘?に殺されるのも悪くは無いかとか、そんな能天気な妄想に浸る余裕は一切ない。自然と身体のあちらこちらが、異様なまでの不揃いなリズムを備えて動く。声こそは響かないが、わたしは確かにタスケをよんでいるらしい。

そして、かようにして、わたしの頬あたりにエラが生えた。

晴れて、わたしは魚類か両生類だかの洗礼を受けてしまった。過去にメキシコサラマンダーの異名を持つ私に相応しい。ははは。これこそ、運命だろうか。どう肯定的に捉えても、エラはいらぬよ。ああ、先程までのあの苦しみはない。感謝すべきか。

 

日常というものは、わたしにとって、結局のところ、ドロドロしたきもちのわるい流れだ。

自ら不条理を叩きつけながらも、同時にそれに適応させるような力を、与えるのである。そう思うと、どこかもて遊ばれているかのような感覚に陥らなくもない。

この不吉な予感は、わたしを運命論者へと誘うのであろう。

 

この奇妙な力を、成長だ、と高々と主張できる人間に、わたしは憧れるのだった。

豆乳は最高であるという話

そういえば、わたしの行動というものを思い返してみると場当たり的であるというのが、散見される。妻にもよく指摘を受ける。

思考というプロセスを吹っ飛ばしてその場の勢いで、気付いたら行動が終了してしまっている。思考することが億劫なのだ。

思考することそのものが昔から得意ではなかった。それは何故か?中学生くらいから物事を深く考えることを放棄していた。虹が何故あのような色彩現象として現れるのか?そんなものはどうでもよかった。むしろ、そんなものは知りたくなかった。

ただ、わたしは物事を、この世の種々の現象や不思議なこと、それらを説明しないことが、寧ろ、粋であるという考えをいつの間に備えてしまっていたように思う。

一方、わたしは別にこの世の学者や偉人に喧嘩を売るほどの度胸は、当然のない。世界を解明しようとする天才を不粋だとは考えていない。

そのように考えるとただ単に、私が自己欺瞞に陥ってるだけなのかもしれない、と思う、会社終わりのひとときに豆乳で乾杯!!!豆乳最高!!!

 

 

 

おひるね

わたしはiPadを開いた。カメラを起動する。もうお昼か。

これほど心地のよい土曜はそうそうないだろう。家のリビングの一室に引き込もっていても、十分にその恩恵を得ることができる。ベランダ脇の通りからは疎らなエンジン音に加え、時折、控えめな子供の騒ぎ声を聞くことができた。自宅待機が長引き、痺れを切らしてとうとう外に出てきたのだろう。妻と二人きりで家の中にいると、このご時世、世界にぽつり取り残されたような心持ちになるので、外のちょっとした刺激はというと、実のところ、かなりありがたいのだ。

手元のiPadのビデオモードをわたしは選択するや、画面いっぱいに占めているのは、わたしの妻だった。

妻は涎で池を作りながら、不規則な寝息を立てていた。夢をみているのだろう。

わたしは人差し指と中指で画面を広げると、画面は妻の顔面で満たされた。じっと、動かない。変化というのも、顔面のみではほとんど見られない。

この絵について、わたしは動画として撮影する必要があるのか否かを考えた。が、まぁとりあえず、面倒なので、念には念を、動画で撮影しておこうと、そう決めた。

撮影開始ボタンに触れる瞬間に、わたしの脳裏に一つが投影された。

世帯持ちだったんか!今が一番いいときだな!

わたしは特段、何に構うことなく、撮影を開始した。それからわたしはソファに寝転がって、ただ寝た。

 

 

 

セツメイ

我々は常に、説明を強いられている。

 

何故か分からないが猛烈に皿洗いをしたくないとき、というのが存在するとしよう。普段であれば食器を下げると流れるようにスポンジを右手に握りしめ、やや中腰になりながら私の仕事、わたしの役割が始まるというのに。今日は力が入らない。

布団のほうにゆるりと導かれた私はパタリと、文字通り、堕ちた。軽く目を瞑る。きもてぃ。

崩れ落ちた身体と裏腹に、思考は活発に作用した。

私は神様お嫁様に説明しなければならない。当たり前だ。これは当たり前のことなのだ。共に生きる中での己の役割を、わたしはたった今、布団の上で、大の字になって放棄したのだ。世界で唯一尊敬するお嫁様は部屋のマネジメントを、汚くならんようなシステムを構築したり、私が全くもって出来ないお金の計算、財務も全て取り仕切ってくれる、見るだけで身の毛がよだつ書類もきちんとラベルを付けて整理してくれる、そんな途方もなく頼りのある妻なのである。あー、そうか、そう考えると私は思考を要する仕事を妻に押し付け、肉体、身体活動によって己の存在価値を見出だそうとするまではまだ良かったが、結局は布団の上でグズグズ御託を並べているだけである。ははは。

ただ、わたしのこの布団の上での御託にも意味がないと一概に、切り捨てることはできないかもれない。そう思うのだ。というのは、かの私が仕事を放棄してサボりに興じていることに対して、一種の罪悪感を覚えること事態、この演繹的な論理の前提として

妻が頑張ってるから私も頑張らなければならない。その逆もしかり

という確固たる地盤が、少なくとも暗黙の了解的にこの山本家には密かに定着しつつあるようだ。

わたしは家の仕事に役割があると先程申し上げたが、特段、会議のようなものが起こって決定がなされたわけではなくそれは自然的に決定された。それも上の前提の通りに、実直に進んだ自然作用だ。

仮に私がこのまま目を瞑ったまま朝を迎えるということになったら、すなわち、例の前提とやらを無視して皿洗いを放棄したら、何が起こるかは自明である。シンクがあふれたままだし、可愛お嫁様もわたしと暫く口を利いてくれないだろう。

話は変わるが、資本主義という社会構造は画期的なのだ。組織としても、一個人としても、己を磨き上げ、他者より優れてると思わせたり、実際に優れてる者が上にのしあがってゆく。そこには当然、その人間に一定の評価を下す人間がいるわけだ。

山本家は現在フラットな構造だ。定員は約二名。そして我々を採点する者は当然のことながら、いない。

私がこのまま布団で幸せを貪りつつも皿洗い、仕事を進ませるためには、我々を常に監視し評価してくれる信頼に足る何か、もはや人間でなくてもよいのかもれない、があればよいのだ。そうすれば、わたしが寝てるのを寧ろポジティブに考えて妻はわたしの役割を、率先してこなすかもしれない。

それか私がぬくぬく布団から妻を評すればよいのか?評価とは何か?具体的に、ありがとう!という在り来たりな言葉をかければいいのか?5ポイント付与すればいいのか?、いや、しかしそうなると、妻が皿を洗い終えるまで私は起きていなければならない。それは不可能だ。この布団の温もりの中にいながらにして、だ。そんなものは生き地獄である。そもそも、妻は私からの評などに一の興味も示さないだろう。

わたしに残された道は、説明することだ。もう強いられている。ありのままを伝えるのだ。なぜ皿を今日は洗う気が起きないのか?そんもんは知らん。わたしにもわからない。

これは説明できないことだ。わたしは殆どの事柄を正直、全く、正しく正確に伝えることができない。その手段すらもたない。理解できていないから。

おやすみなさい。