公園というのは公(おおやけ)の園(その)とかくが、まったくそのとおりである。いつまでやってんだと日が暮れるまで手首のスナップモーションを何度も交えつつキャッチボールを女に教える男、何が愉快なのか池の周りを周回する汗ばむ息荒げなおじさん達、池の中央に浮かぶ岩の上で呑気に甲羅でも干してる外来種。
そして、わたしたち親子(わたしと帆乃ちゃん)もご多忙に漏れずその生態系の中の一員であることは認めねばならない。わたしたちは麗らかな週末の、この絵画の1ピースでありながら、同時にその中で躍動する平凡な父とその娘であることを、この際、誇りにでも思うとしようか!
この広い公園のなかで、わたしたち親子が躍動していたその場所は、滑り台というあのシステムである。一応、滑り台というものが何かを久しぶりの方々のためにお話ししておきますと、滑り台とは、「階段と傾斜からなる遊具」であるとと同時に、その周域には独自のコミニティが育まれる多様的な場なのだ。
試しにひとつ、今日の例を申し上げるのならば、ほのちゃんが滑り台の階段をよっこらよっこら登っていざ滑るというときになると、わたしはいつも「ちょっと待った!」と声を張り上げねばならない。なぜなら、3秒前くらいに帆乃ちゃんより一歳くらい年下の子がよちよち出発したばかりで、確実に後ろから激突して泣かせてしまうことが火を見るより明らかであるからだ。
したがって、わたしは帆乃ちゃんに、「前の子が滑り台の半分くらい行ったら滑ろうね」と、とりあえずの滑り台の基本ルールを説く。帆乃ちゃんはうん!と力強くうなずくとシュースルシュースル!と独特のあのゲラ笑いと両手の反作用でお尻をぐいっと前にスライドさせて、勢いつけて滑り始める。オトウサン!オトウサン!きてきて!というので滑り台とほぼ同程度の傾斜を前につんのめりそうになりながら、もつれそうなサンダルで急降下することを、当たり前のように強いてくる。
滑り終わると彼女はきまって、もっかい!もっかい!と言いながら緑の斜面をおぼつかない足取りでまた登って滑り台をめざす。帆乃ちゃんは慣れた足運びで階段を登ってちょんと腰を降ろすと、半分!半分!と高らかと叫ぶ。わたしは、前にお友達はいないし別に滑っていいんじゃね?と返す。それでも律儀なのか頭がちょっと硬いのか、わが娘はあのグイッとお尻をスライドさせるあのかわいすぎるムーヴを一向にとらない。それどころか文鎮のようにずっしりとそこに座して悲しそうにこちらをみつめている。おいおい、話きいてたか?娘よ、半分のルールは前に他の子がいる時だけだぜ?しまいには
「半分、半分、食べる!!おなかすいたの!」
と叫んで滑り台の上で泣き出したかと思えば、うしろに並ぶ子たちと傍にいるその親も何事かといったような微妙にやりづらい空気が流れたのだった。
そのとき、わたしは「半分、食べる」というこの二つのワードを撫でるようにゆっくりと脳内で反芻しながら、雷鳴に撃たれた龍のように背中をくねらせたくなる衝動を抑えつつ、まずはわたしの犯した単純過ぎる己の愚行を責めなければならなかった。そして、このことを、この事実を説明するには、山本家の食卓にすこしばかりフィールドを移す必要がある。面倒であるがお付き合いいただければ幸いである。
山本帆乃。2歳。彼女の自己紹介プロフィール、好きな食べ物欄に刻まれるものは、納豆であり、それ以上でもそれ以下でもない。納豆、納豆、納豆。彼女のアイデンティティのコアにも肉薄するその魔法は、いかようにも、あのネバネバした、あの腐乱した大豆だった。
わたしは毎食、納豆を食べる。わたしも、納豆が好きだ。も、というのは些か変だ。30年先輩のわたしが先に納豆を好きになった。ある日、いつだか忘れたが、わたしが納豆を食べるのを帆乃ちゃんは羨ましそうにみていた。
「半分、食べる?」わたしはそう言って、半分だけを帆乃ちゃんの茶碗にいれてやった。このやりとりを私たちは多分何度も繰り返した。無意識のうちに。そして、いつの間にか、彼女のなかで、いつの日から好きな食べ物は「半分」になったのでした。
そうすると、彼女はいま滑り台のテッペンで駄々を捏ねているのは、わたしが半分というワードを使ったせいで、急に半分が食べたくなってしまっていて、なんでかわからないけど、そのスイッチが入ってしまったということである。
わかった!帆乃ちゃん!お父さんが悪かった!半分食べたくなっちゃったんだね!それは俺が悪かった!でもそこで今からからお父さんがコンビニに半分買いに行って、ほのちゃんがそこでまってて、食べてから滑ったら後ろのお友達は帆乃ちゃんが半分食べ終わるまでずっと滑れないよね?だからとりあえず今は滑ってもらって、おうち帰ってからゆっくり半分食べよう!
帆乃ちゃんは苦虫を噛み潰したように、ゔん、、と頷くと、スルスル、仕留められた蚊のように泣く泣く滑り降りたのでした。