水島弘史の冷製パスタが冷静に少なすぎる

水島弘史という男をご存知だろうか?

知らぬ人のために一応、説明を挟んでおくと、彼は世にいうところのシェフである。

シェフというのは、顔がつるんとしていて、肌は紅く焼け、そこに白い衣を纏い、白い歯を見せ、うまいものを作る人間である。

これが私の中でのシェフであり、異論は大いに結構だが、特に異論はないであろうし、そういうことで、だ。

しかしながら、私は自身の提唱するシェフの定義の胸ぐらを掴んで、敢えて地面に叩き付けてみようとおもう。そう、うまいものを作る人、これにわたしは、異論はことさらないが、意義を申し奉る候う。

私は水島弘史というシェフが、私のシェフ史上最もシェフであり、私のシェフという観念像を、永年守り続けたそれを押し退け革命を起こした。私が何を言ってるか理解できんとか、取り敢えず落ち着いて下さいとか、思うことはたたあるだろうが。

彼はそういう意味で、大いに異端なのだ。

二人分パスタが、60gなのだ、角田信郎のような重機と風格をただよわせておきながら、か細いのだ。

一人前が100gではないのか。

 

白黒紅細厚、シェフは矛盾らのサラダボールであり、今後も新たなシェフを像を更新すべく、私は足繁くネットに重鎮するかれらのレシピ、魂を夕食という形で復活させるとことを、終業後の楽しみとして生きていく次第である。

 

 

4/14

月曜朝、曇天を通り越した、雨。雨。

雨の日はちょっとロマンチックな気分になるとかいう洒落た女性も世間には幾らか、一定数はいるとわたしは聞いたことがあるような、ないような・・・

少なくとも、こと私に限っては、物事をいかに肯定的に捉えようにしても、ただの貧困一文無しをゼロベースと捉えられようとも、雨から恵みは得られまい。

ついでに言っておくならば、私はこの愛知県という地域にやってきて、以前に増して、雨がより一層、窮屈な対象になったことは認めざるを得ない。

というのも、彼らは雨に濡れたことを、「ベタベタ」と表現した。

これから連想されるものは、市民プールの脱衣所の、あの例の床であり、はたまた、風呂場の排水溝を塞ぐぶ厚い黒塊であり、天ぷら後の、あの忌まわしき喚起溝であろう。

しばしば、三河弁話者特有の「〜もんで」を聞くや、愛知へ移住してきた民たちは散々、飲み会等でそれを話題にしもてあそぶのだが・・・・我々はそんなことに構っている暇はないのだ。むしろ、「〜もんで」程度、寛容な心を持って受け入れるべきであろう。(わたしもすっかり定着した)

 

話を戻そう。そう、わたしが話さなければならぬことは、方言の話ではない。ただ、何を話そうことだか、忘れてしまった。ワーキングメモリ3のニワトリ。もう、さらに三歩動けば、思い出すという可能性にかける。そのまま忘れてしまっても、正直、全く構わないのだが。むしろ手間が省けて、よい。

 

仕事から帰るや、わたしは今朝自分の頭を過ったことを朧げに、思い出してしまった。これは、わたしとお嫁様の、側からみれば大したことのない些細なことかもしれなかった。

 

この憎き消失すべき記憶は、やはり、なのか、雨を引き金にして呼び起こされた。

今朝、雨とお嫁様はぴったり重なった。

雨は、有識化の中では、手に届く生活のなかでは、人間に面倒を授ける存在だが、意識の端においては、恵みの雨を与える。生に不可欠、無くてはなるまい。

お嫁様も、確実にわたしの無意識に作用し、日常に落とし込まれ溶け込んでいるせいで実感としては顕れないが、何かほとばしる、強く作用するものが必ずあるのだ、そう思う。

 

その力は、お嫁様に対するわたしの信仰めいたものかもしれない。その力は、少なくとも、わたしが半ば自己陶酔・自己満足的に振るい文章を書くという自己幻想をゆうに越えるであろう。この力だけは自己幻想の触媒としてはならない。

窒息

日々の日常というのは、こうも単調なのかとため息をつくことも、しばし。

いえに帰るや、わたしは手を洗いアレクサに部屋の電気を付けてくださいと、深々お願いをした。パッと灯がともる。わたしはソファに腰を下ろす。何のことはない。手慣れたものだ。

 

時として、日常という者は、可愛いおっとりとした面持ちを我々に晒しながらも、わたしの首根っこを掴むや水の張ったところに、決して抗えない力で押さえつける。

げぼぼぼおおおお、おぼu。DAZUKEDEGUDASAあああああい!!!!!!!!!

わたしは苦しゅうこと、苦しゅうことこの上ない。なんか知らぬが溺れている。こんなに可愛い娘?に殺されるのも悪くは無いかとか、そんな能天気な妄想に浸る余裕は一切ない。自然と身体のあちらこちらが、異様なまでの不揃いなリズムを備えて動く。声こそは響かないが、わたしは確かにタスケをよんでいるらしい。

そして、かようにして、わたしの頬あたりにエラが生えた。

晴れて、わたしは魚類か両生類だかの洗礼を受けてしまった。過去にメキシコサラマンダーの異名を持つ私に相応しい。ははは。これこそ、運命だろうか。どう肯定的に捉えても、エラはいらぬよ。ああ、先程までのあの苦しみはない。感謝すべきか。

 

日常というものは、わたしにとって、結局のところ、ドロドロしたきもちのわるい流れだ。

自ら不条理を叩きつけながらも、同時にそれに適応させるような力を、与えるのである。そう思うと、どこかもて遊ばれているかのような感覚に陥らなくもない。

この不吉な予感は、わたしを運命論者へと誘うのであろう。

 

この奇妙な力を、成長だ、と高々と主張できる人間に、わたしは憧れるのだった。

豆乳は最高であるという話

そういえば、わたしの行動というものを思い返してみると場当たり的であるというのが、散見される。妻にもよく指摘を受ける。

思考というプロセスを吹っ飛ばしてその場の勢いで、気付いたら行動が終了してしまっている。思考することが億劫なのだ。

思考することそのものが昔から得意ではなかった。それは何故か?中学生くらいから物事を深く考えることを放棄していた。虹が何故あのような色彩現象として現れるのか?そんなものはどうでもよかった。むしろ、そんなものは知りたくなかった。

ただ、わたしは物事を、この世の種々の現象や不思議なこと、それらを説明しないことが、寧ろ、粋であるという考えをいつの間に備えてしまっていたように思う。

一方、わたしは別にこの世の学者や偉人に喧嘩を売るほどの度胸は、当然のない。世界を解明しようとする天才を不粋だとは考えていない。

そのように考えるとただ単に、私が自己欺瞞に陥ってるだけなのかもしれない、と思う、会社終わりのひとときに豆乳で乾杯!!!豆乳最高!!!

 

 

 

おひるね

わたしはiPadを開いた。カメラを起動する。もうお昼か。

これほど心地のよい土曜はそうそうないだろう。家のリビングの一室に引き込もっていても、十分にその恩恵を得ることができる。ベランダ脇の通りからは疎らなエンジン音に加え、時折、控えめな子供の騒ぎ声を聞くことができた。自宅待機が長引き、痺れを切らしてとうとう外に出てきたのだろう。妻と二人きりで家の中にいると、このご時世、世界にぽつり取り残されたような心持ちになるので、外のちょっとした刺激はというと、実のところ、かなりありがたいのだ。

手元のiPadのビデオモードをわたしは選択するや、画面いっぱいに占めているのは、わたしの妻だった。

妻は涎で池を作りながら、不規則な寝息を立てていた。夢をみているのだろう。

わたしは人差し指と中指で画面を広げると、画面は妻の顔面で満たされた。じっと、動かない。変化というのも、顔面のみではほとんど見られない。

この絵について、わたしは動画として撮影する必要があるのか否かを考えた。が、まぁとりあえず、面倒なので、念には念を、動画で撮影しておこうと、そう決めた。

撮影開始ボタンに触れる瞬間に、わたしの脳裏に一つが投影された。

世帯持ちだったんか!今が一番いいときだな!

わたしは特段、何に構うことなく、撮影を開始した。それからわたしはソファに寝転がって、ただ寝た。

 

 

 

セツメイ

我々は常に、説明を強いられている。

 

何故か分からないが猛烈に皿洗いをしたくないとき、というのが存在するとしよう。普段であれば食器を下げると流れるようにスポンジを右手に握りしめ、やや中腰になりながら私の仕事、わたしの役割が始まるというのに。今日は力が入らない。

布団のほうにゆるりと導かれた私はパタリと、文字通り、堕ちた。軽く目を瞑る。きもてぃ。

崩れ落ちた身体と裏腹に、思考は活発に作用した。

私は神様お嫁様に説明しなければならない。当たり前だ。これは当たり前のことなのだ。共に生きる中での己の役割を、わたしはたった今、布団の上で、大の字になって放棄したのだ。世界で唯一尊敬するお嫁様は部屋のマネジメントを、汚くならんようなシステムを構築したり、私が全くもって出来ないお金の計算、財務も全て取り仕切ってくれる、見るだけで身の毛がよだつ書類もきちんとラベルを付けて整理してくれる、そんな途方もなく頼りのある妻なのである。あー、そうか、そう考えると私は思考を要する仕事を妻に押し付け、肉体、身体活動によって己の存在価値を見出だそうとするまではまだ良かったが、結局は布団の上でグズグズ御託を並べているだけである。ははは。

ただ、わたしのこの布団の上での御託にも意味がないと一概に、切り捨てることはできないかもれない。そう思うのだ。というのは、かの私が仕事を放棄してサボりに興じていることに対して、一種の罪悪感を覚えること事態、この演繹的な論理の前提として

妻が頑張ってるから私も頑張らなければならない。その逆もしかり

という確固たる地盤が、少なくとも暗黙の了解的にこの山本家には密かに定着しつつあるようだ。

わたしは家の仕事に役割があると先程申し上げたが、特段、会議のようなものが起こって決定がなされたわけではなくそれは自然的に決定された。それも上の前提の通りに、実直に進んだ自然作用だ。

仮に私がこのまま目を瞑ったまま朝を迎えるということになったら、すなわち、例の前提とやらを無視して皿洗いを放棄したら、何が起こるかは自明である。シンクがあふれたままだし、可愛お嫁様もわたしと暫く口を利いてくれないだろう。

話は変わるが、資本主義という社会構造は画期的なのだ。組織としても、一個人としても、己を磨き上げ、他者より優れてると思わせたり、実際に優れてる者が上にのしあがってゆく。そこには当然、その人間に一定の評価を下す人間がいるわけだ。

山本家は現在フラットな構造だ。定員は約二名。そして我々を採点する者は当然のことながら、いない。

私がこのまま布団で幸せを貪りつつも皿洗い、仕事を進ませるためには、我々を常に監視し評価してくれる信頼に足る何か、もはや人間でなくてもよいのかもれない、があればよいのだ。そうすれば、わたしが寝てるのを寧ろポジティブに考えて妻はわたしの役割を、率先してこなすかもしれない。

それか私がぬくぬく布団から妻を評すればよいのか?評価とは何か?具体的に、ありがとう!という在り来たりな言葉をかければいいのか?5ポイント付与すればいいのか?、いや、しかしそうなると、妻が皿を洗い終えるまで私は起きていなければならない。それは不可能だ。この布団の温もりの中にいながらにして、だ。そんなものは生き地獄である。そもそも、妻は私からの評などに一の興味も示さないだろう。

わたしに残された道は、説明することだ。もう強いられている。ありのままを伝えるのだ。なぜ皿を今日は洗う気が起きないのか?そんもんは知らん。わたしにもわからない。

これは説明できないことだ。わたしは殆どの事柄を正直、全く、正しく正確に伝えることができない。その手段すらもたない。理解できていないから。

おやすみなさい。

 

 

 

GALAXY a20

7000円のスマートフォンを買った。GALAXY a20という機種だ。親指が使っていたiPhone6と比べてもよく滑る。摩擦がない。滑らかだ。ここまで文字を入力するのもいつもに比べて倍以上はかかっているが、a20(相棒)のせいではない。

とてもいい買い物をしたと思う。ノッチの部分がエロい。

イートイン爺

わたしは中々、独りというものに飢えている。このように書くと、わたしはつくづく幸せものだと気付かされる。わたしのことを好いてくれる人間もいるからだ。わたしが常に孤独の中にあれば、わざわざ手間を掛けて孤独を望もうとすることもしないだろう。

 

わたしが今、腰を落ち着けているのは、コンビニの飲食コーナーの一角だ。先程から店員と客との揉め事が騒がしい。内容に聞き耳をたてているとスポーツ紙をぶら下げた爺さんが、店員に向かって一方的に文句を垂れているようだ。爺さんはイートイン申告をして軽減税率対象外なのに関わらず、申告をせずに軽減税率対象の恩恵を受けた上でイートインコーナーの一角を占めている阿保客(多分わたしのこと)がいるとかで興奮しきって今にも口から手榴弾位は吐き出しても納得できてしまいそうな形相、眼光を彼は備えた。

 

わたしがコンビニのイートインコーナーに坐していたというのは、その例の、独りにしてくれ活動の一環だった。孤独を愛する男の聴覚と視覚は少なくとも、イートイン爺の白濁して粘り気のある鼻声と歩道の脇に避けられた雪塊のような、なんというか白髪がやや優勢であるかのような、いと鮮やかな絵画によって失われてしまった。

 

店員に曲がりなりにも相手にしてもらえている爺、その鼻声がナイアガラの滝壺に落ち込む最中、わたしは残りのコーヒーを呑み込み、そして席を立った。

 

 

 

死と作品

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昨日、あれが死んだ。その死は、予め、定められていたものだった。が

twitterをみる頻度が以前に比して激減し、トレンドというものに、世間に背を向けるまさに情報弱者と言わんばかりの私が、このワニの話題に触れることになったのは、お嫁様のアンテナのお陰とでもこの際言っておくこととしよう。

世の人は、皆、このワニに熱視線を注いでいる。リツイートも150万だかを超えている。

わたし自身、まだこの作品に触れていないが(そのうち1日目から読もうと思う)、何がここまで世の人々の心を動かしたのか?電通案件だとか、金の匂いがする等の暇人オタクツイッタラーたちのまどろっこしい議論は一旦置いておいて、この作品の死の扱い方・捉え方に焦点を当てた方がよっぽど有意義で楽しい。

 

私は“天元突破グレンラガン”(熱血ロボット系アニメ)の第7話で主人公の兄貴が殉死すること。“タッチ”の完全無欠野郎の弟が交通事故であえなく、無念、天に旅立つこと。これらの事象を把握した上で、それらの作品に1話から順に触れていった。(その死が有名で一人歩きしていたため、わたしもしっていた)

物語を読むにあたって、主要な人物の死を知りながら其奴の言動に着目するのはもう、それはそりゃ神のような視点に他ならぬ何者でもない。

なんというか・・・摩訶不思議な気分である。

物語の中で扱われる死は、通常、刺激が強すぎてビリビリ痺れてしまうような、強烈な作用・意味を持っている。作者は不用意に、無意味に自分の創造した人物を殺すことは、ほとんどない。とてつもなく大雑把な例を挙げるのならば、あるミステリー小説を思い浮かべると、「脱出不可能な無人島に唐突に招かれた客人たち、次々に奇異な仕掛けで殺められる・・・」その死は犯人の足取りを追うヒント、一つの大きな意味を持った一ピースである。(もちろんホラー的な要素の大きい作品には主要人物であっても死亡フラグを回収するだけで特に何も残さずに逝ってしまうということはあり得るが、それも読者に恐怖感を与える、という意味を背負っていると思う)

そういう観点から考えると、死に向かう人物の、時系列的な死の周辺にどんなものが待ち受けるのか?どんなメッセージがあるのか?というものを我々読み手は意識せざるを得ないし、底知れぬ興味を示すのだろう。

“天元突破グレンラガン”という作品は、全50話のなかの先ほど話したこの第7話が大きな分水嶺となりうる。それは兄貴の物語から義弟へと、その意志のバトンが渡された瞬間でもあった。7話以降、主人公である弟のシモンが大紅蓮団のリーダーとして皆を強烈に牽引し、ゆくゆくは宇宙の片隅で、銀河系をフリスビーのように掴んで投げ合い、この宇宙の旧いシステムを文字通り、気合と、そして気合と気合のみで天元突破してしまう。

 

一方のワニはどうだろうか?全100話のうち最終局面の100話目で、このワニの死が訪れる。最終話での死は、天元突破グレンラガンのあの兄貴の死のように、物語の後に続くもの達に意志を受け継ぐわけではない。それならば、このワニの死は何を意味するのだろうか?われわれにどんなメッセージを与えるのだろうか?

ここでわたしが白状せねばならぬことの一つに、わたしはこの“100日後に死ぬワニ”をほとんど読んでいないという点である。よってわたしにはこのワニが、遺したもの、ワニの物語の線上の未来に残したものではない何かに、我々に直接的に与えられるかもしれぬ贈り物に、触れる資格なぞ到底ないのかもしれない。

しかしながら、一点、不幸中の幸だかわからないが、100日目のみはTL上で目にしている・・・

車に轢かれそうになったヒヨコを救って、彼が犠牲になった。

という話の顛末だったと思う。いや、たった今、自分で文字を打ち込んで思ったのが、これも"グレンラガン的な死"と同様の構造である、という風に見ることも可能であるかもしれない。ワニ(兄貴)→ヒヨコ(弟)と捉えられるが、グレンラガンと100日後に死ぬワニの異なる最大の点は、死んだ後に話が続くか否かである。“グレンラガン的な死”は死の先に物語の続きが存在し、明確にその意志の引き継ぎがなされるが、"ワニの死"では、アフターストーリー、すなわち、ひよこがワニの正義なりの何なりを受容し、この世の悪を駆逐する、といったような続編ものが存在しない限りにおいては、我々の想像の中に、"ワニの死"によって発生した意思やメッセージめいたものが生き続けるのであろう。

 

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わたしはここまであれやこれやと、かなりまどろっこしい一切の酒の肴にもならぬ毛ほどもどうでもいい論を展開してきたわけだがワニの死によってもたらされたものは、物語が終了しますよという合図である。もっと冷酷な、興醒めな表現を使うなら、“彼の死の役割”は、この物語、彼の日常をポップに描いたであろうこの物語の終焉を告げるホイッスルであり、死という厳正で、平等な主審によって裁かれることによって、我々が逆らったり介入できる余地はないのだ。

 

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もう真夜中だ。窓際から外の街頭の光がわずかにわたしの手元を照らしてくれる。親愛なるお嫁様はお布団を両足でブルドーザーのようになぎ倒しながら、鼾を立てている。

わたしははてなのアプリを開く。そうすると、下書きが初めに目に飛び込んだ。過去のわたしがワニの話を書いたようだ。なんとも、わざとらしい呆気らかんとしているが、というのも、記憶にあまりないのである。不思議なもので。

自分の書いた文章を読むのは、あまり気が進まない。そりゃそうだ。自分を客観視するというのが、耐えられないのだ。自分という存在を、他社との相対的な競合の最中に、資本主義的なテーブルに載せることは相当な恐怖である。そういう意味でわたしも可愛い可愛い自国を、保護主義に奔走しているのかもしれない。

ワニの話に戻るが、上で熱心に語っているようだが、おそらくわたしはワニの物語を最終的には一個のコンテンツとして、この好きにも嫌いにもなれない物語に何らか、物申したいのかもしれない。

 

 

 

 

 

駐輪場

 

昼休憩。真っ暗で爛れたオフィスに雲間から一縷の光が覗かせたのだろうか、陽がさっと入る。

わたしは細々と豆乳を飲み干した。うまい。これ以上にうまいものは世に溢れるだろうが、何というか、これがまた手頃な旨さなのである。

外に出ようと、そうおもった。

日本には、たまたま四季とかいう目まぐるしい洗濯機みたいなものがあって、これは大変に変化に富むもので、この特段、桜が咲くか咲ぬかの境界、不連続ポイントに立つ今日の日和ほど私を幸せにしてくれることはないかもしれない。

わたしは工場の隅の通りを歩く。目の前に広がるのは工場排水の処理施設だろうか、研究棟の前に神妙な面持ちで鎮座するそれである。

さしあたり、わたしの目的はこの昼間の散歩の行為そのものにはなく、他でもない。

駐輪場が好きか?と問われれば、私は問答無用で、全身全霊を込めて、好きだと答える。ただ、一つだけ、たった一つだけ条件がある。

それは、時間である。すなわち、昼限定だ。

静まりかえる昼間の駐輪場は、何も起こらない。本当に、何も起こらない。昼ドラヒロインの想像妊娠が発覚し、姑富豪旦那の顔面が蒼白するイベントも発生しなけれは、不法投棄チャリがボコスカ投げ込まれる現場に立ち会うことすら、ままならない。

私ごときのチンケな妄想力では、到底この現状に変革をもたらすことは、それはそれは無理だろう。

ただ、この陽気を前に、そんなことすら大した意味は持たないだろうが