書道はオモロい


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Fig1. 15年ぶりの書道、まじでオモロい。


妻がダイソーの袋を下げて家に帰ってきた。今日もたくさん収穫があったようだ。

(また下らなんものを引っ提げてコヤツは帰ってきおったなぁ....また物が増えてうちの中のエントロピー増大に寄与するだけのあぁと...)

私はいつものように条件反射的に脳がNO!を発信するのを尻目に、机に置いた本を持ち上げてもとの読書の体勢に戻った。

ところが、読書にまったく集中できない。それはなにやら妻が異様なまでにニヤついてるからであった。わからない。なんのニヤつきなんだ。企んでいるか。そりゃ確実に企んでいるに違いない。その自信に満ちたようなモナリザのような含み笑いは一体なにを意味するか?

私は妻と10年過ごしてるからこそ、分かる。いや、分かってしまう。

これは彼女がなにかを提案する時の顔であるということだ。そうだ、彼女は俺に何かを、武器を携えて私の前に立っているのだ。その答えはこのポリエチレンの袋にあるというのは、ほぼ間違いない。

....................。

.........。

それから、早3時間。手渡された道具を使いADHDの過集中特性と双極障害の躁エピソードを半ばカクテルのように強引に動員しつつ、気付けばひたすらに「書の心」を堪能していた。ドーパミンの洪水がおきていた。夢中。この一言に尽きるのだ。

妻がダイソーで調達してきたものは、半紙50枚・筆・墨汁の3点の330円であったのでした。

書道というのは、こんなにも楽しいものだったのか.....。

 

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Fig2. たくさん書きまくった。楷書。


私は知らなかった。最後に筆を持ったのは6年生のあの陽の当たらない4階の教室。当時の私は今にも増して阿呆だった。落ち着きがなかった。人の話もロクに聞かない。

そんな奴に『書の心』(妻が再三に言っていた)がわかろうはずもなく、己の心の静けさと向き合う必要性もなかったのだろう。

私はとにかくググったお手本を参考に書きまくった。ひたすらに書く。色んなことを考える必要はない。ただ真似をするだけである。

勿論、沢山同じ字を繰り返し書く中で、「ここのバランスが失敗したので次はこうしよう」という微修正フィードバックはあるのだが、何か動物的に一定の快楽を味わっているときに現れるあの特有の虚しさが襲ってくることがない。そこの安心感も素晴らしい。

 

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Fig3. 行書の『試練』


楷書に飽きると私は特に考えずに行書に移行した。小学生のとき書道を習っていた妻。行書の練習文字として「試練」はどうだと提案してくれた。

これがまた、よく分からんが楽しい。何となくそれっぽさを追い求めて真似をするだけで、「何となくそれっぽいもの」しか完成しないのだが、何度と夢中になって練習していると「流れ」のようなものを感じられるようになる。上手いとか上手くないとかどうでもいいのである。

この流れが癖になる。何かこの流れを体感すると身体全体を駆使して文字を書いている気分になる。身体と筆先が一体になったような不思議な感覚である。

私が求めていたものは、これ以上でもこれ以下でもなかった。言葉にならない。

それを妻が満たしてくれた。ありがとう。本当に。