鬱なんです

今日はなんとも、ぬれ煎餅に感情移入をしてしまう特殊なモードに入ったおじさんに仕上がっておりまして。

気まぐれ、気分、人間はあれをしたいとか逆にこれをめっちゃしたくないとか、あれなら何とかできるかもしれないとか、日常のなかで色々思う。

この気分や気まぐれという概念は、気分が下がっている状態である人間にしか感知されることはない。気分が普通かそれ以上のときには、これらが問題として表れてくることはない。なぜなら、気にする必要がないのだから。概念が孵化するところに問題はある。

そういう意味で、いきものがかりの「気まぐれロマンティック」なる楽曲は、「ぬれ煎餅」のようなもので、ロマンティックに浸っている上向きの気分の中では決して析出することのない「気分」を捉えようとしたかなり実験的な試みであると言わざるを得ない。本来、ロマンティックの中で気分を確認することに意味はないし、ロマンティックの最中で気まぐれなる言葉の出番はないはずだ。

シェフの気まぐれパスタなるものも、別に陰鬱状態の凄腕料理人が作ったパスタではないであろう。あれは気まぐれたい陽気なシェフがただ作った美味いパスタに他ならない。

私がぬれ煎餅を好きになったのは、いつだったかちゃんとは覚えてはいない。ぬれ煎餅が好きというよりその倒錯的とも言える性格を帯びたその存在に惹かれたのだと思う。(ぬれ煎餅も実際よく食べるようになった。たまにだけど)

煎餅は固くてはならない、という自己のアイデンティティそのものを真っ向から否定しようとした煎餅。

煎餅の種という観点からみると、べつに固いままでずっと通すことができた。煎餅の進化の系譜の中に突如生じた特異点、ぬれ煎餅はそれこそ暗い井戸の底から出てきた「気まぐれ」が創り出した自己矛盾的な存在であり、煎餅界に一石を投じる存在でもある。

ぬれ煎餅が生まれたのは、多分、鬱からであろう。