妻という条件

肺炎療養2日目。

雨だ。

そこら一帯の道ばたを足早に歩くおじさんは、恐らくこの街の優良企業に勤め人であるのはほぼ間違いなく、決して平坦ではない修羅を幾度となく潜り抜けた猛者であろうし強靭な精神と肉体を備えた存在。

彼らの作った世界を享受して我々凡人は暮らしている。彼らの優れた点は無数に、沢山ある。優れた点と表すると私が彼らの上に立って、さも「俺はアンタらなんぞに理解できない、到底到達できない美点、懐にリーサルウェポン忍ばせてあるんやぜ」とでもいいだけな気もするが、私個人としては朝から禿げたおっさん達に噛みつく気は毛頭ない。私たちはただ馬鹿正直な丸裸なだけだ。

彼らは特に病気とか子供の用事とかそういった緊急事態に直面しない限り、会社を休まない。責任がそうさせるのか何なのかは正直わからない。兎に角、これは私や妻からしてみれば、途方もなく驚愕せしめる事実である。ありえない。

そんなことは置いておいて。数十年の修羅を抜けた実績を持つ完全無欠な彼らにすら、私は彼らには足りてない栄養素があるように感じている。いや、足りてないというか、損なのかもしれない。いや、損ではないのかもしれない、もったいない?あれは儚くも美しい呪いなのかもしれない。

街を歩く目に光を灯す彼らはわたしの妻のことを知らないのだ....。

 

この間の大型連休に、中学の友人Nに「山本ヤマの奥さんはどんな人間なの?」という趣旨の質問を受けた。この手の質問に対する回答はハンカチのように常に携帯しておくのが当たり前(マナー)だとしても、私はその場はテキトウに「この世で最も愛すべき存在」と使い古されたセリフを吐いた。(これは明らかに外した。)

この質問に関しては、内面が垣間みれるエピソードや、性格のアウトラインを断片リストのように並べて話を広げていくのが会話の常套手段であることは理解しつつも、心の中では「アイツって何だ?」と疑問符が沸々と腹の底から湧き上がって止まらなかったのを記憶している。

私は妻について何も言えなかったのです。優しいとか明るいとか、臆病とか、臆病じゃないとか品があるとかないとか、根暗とか根暗じゃないとか、(これ以上はマカロニえんぴつ味に油を注ぐだけなので割愛するが)、要は、彼女の要点をひとつも掴んでいなかったということです。

 

ただ、妻を何一つ理解していないということに気づいても、私は不思議と驚くということはなかった。十年間もこれだけの時間を共に過ごしても、ただ一緒に居るだけなく理解しようと努めても、所詮無駄なのである。他者を理解することなぞできんという他者論的な哲学的コンテクストではなく、ただ純粋に私なぞに妻を理解できる能力がない、ただ己の認識力が不足していて妻(の言動)を理解できるレベルに全然到達できていないという現実。なんだか朝からストイックになりましたが。

私の反省(それはアンタが頑張ってくり〜)はここまでにして、この全然能力が足りていないのにもかかわらず、この難解で不可思議な堅物に挑まねばならぬは、一言、妻と永遠にいることが宿命づけられているから、です。わたしのシステムの最も深い層に刻み込まれた条件として、これはわたしの存在についての境界条件の座に、いつのまにか勝手に腰を下ろしていたのです。玉座の横に布団とか敷いてるし、なんだか得体の知れないマッサージ器具を儀式のように布団の周りに並べて、ゴロゴロ横になってニタニタしながらアイマスクの隙間からこちらの様子を伺っているのです。口癖はあー仕事いきたくなーい、です。

私は仕事なんかやりたくなければ辞めてしまえばいい、それだけとドライに思います。嫌なことがあれば逃げればいいし、逃げて環境を整えてまたスタートをきればよいのです。でもわたしが妻といることは、既に決定している条件なのです。これはどうにも変えることができない。それアンタが勝手に思い込んでるだけだよね?と言われれば、わたしは喜んでexactry!!その通りと答えましょう。そうです。ただ、忘れてはならないのは、その思い込みを作ったのは彼女自身であるということです。

 

と書いた上で私は、一呼吸をおく。

本当のことを語っているのか?これは美談ではないかと。私はこの数分間、ただひたすらに書くことの快楽に耽っていただけで、これらは妄言なのではないか?と感じるのも、本当と嘘を分かつものが自分の中にある時点で、(書いている間は)しっかりと自分自身を監視している必要がある。

優れた人間は自然体のなかでも、やんわりと「本当」を語ることができる人間だと思うのです。そういった意味で、妻はわたしがこれまであったどの人間よりも「本当」を語ることができると私は「本当」に思っているのだと、ここに「断言」しよう。