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本当に。わたし以外のこの世のあらゆるもの、万物が大人という生き物で構成されていると思うのは錯覚をとうに越して実感のレベルに達している。ひとと話すということ一つとっても、あんなに楽しい事であるに関わらず、他者に対してここまでかと思わせる程に、遠さのようなものを痛く感じることがある。

わたしは自分以外の人間が考えていることが本当にこれっぽっちもわからないことが分かったので、とりあえず、その人たちのことを大人なるラベルを貼って、一旦距離を置くことを試みてみた。ただ、そこから離れてみて改めて大人たちのことを伺っていると、逆に自分の中に寝息をたて潜む大人が明らかになっていくことすらあった。大人はリスクについて考える。当たり前といえば当たり前なのだが、彼らは自分の対応、策が地に落ち失敗してしまったときを明らかに想定するし、それだけではなく、次の策を考えて用意しておくという、そういう、狡猾さや周到さを備えている。

私はこの大人特有の(大事なことなのは承知なのだが)用意周到さ、ヌケモレのなさ、ピシッとハマったパズル、リジットな大人感を真似して、正確にはやっているフリをすることに全力を傾けてなんとか生き伸びてきた。つもりでいたが、気づいた時にはそのフリもちょっとだけ板についた自分を確かに自認する瞬間があり、大人でない私が、大人である私をそのように感覚することがあった。

たぶん、上みたいなことが何回か行われると、大人でない私が絶滅危惧種的な存在にどんどんと追いやられて、やがて消える。その消失点の先のさきに真の大人なる想像上の産物があるのだが、わたしの問題は大人そのものでなく、大人を獲得すると、その分、なぜかそれ以外が死滅する状況のほうがよっぽど問題なのである。もし両者が共存するのならば、双極性障害のような精神疾患として扱われてしまうという危険すら現代には存在している。大人はそれ自体はそれはそれという感想を抱きつつも(生活するための道具立てとして)、非大人的なものを餌にして肥大化する厄介な貪獣の姿も持っていることを理解せねばならない。

 

以上