修士論文を書かなければならないのにこんな事をしている場合ではない

この問題をわかるもの

と黒板を背にその若い女教師はたしか言った。冒頭いきなり、些細なことを言えば、この定型句は恐らく少し違っていて、これは舐められることを怖れた教師が、初老の威厳を急いで被ったのち、誤って発射することばを連想させるからである。でもきっと当時の私は知らないが、現在の私もそんなことは大してどうでもいいことだと考えているし、これから先もどちらにせよ、大して変わらずにまったくどうでもいいことだと考えるであろう、というか寧ろ、考えなければならない、と思う。

とにかく話を戻すと、私はこの教師の高圧的なあの鬱陶しい視線を潜り抜ける必要が、それはかなりあった。というのも、暇な貴族の独り言を現代語に変換するという行為を、日本社会が目の前の女教師を通じて、いわば操り、要求してくるわけで、しかもこの日記をかいた引眉の女の気持ちが全く分からないことが周囲に知れ渡ればそれこそ、大変な赤っ恥かき、恐らくは吊るし上げにされて元の穏やかなあの青春には戻ることは愚か、例のカースト上位から引眉を強要されるため毎朝6時くらいに母のメイクポーチをかき漁って短く持ちにくい眉ペンで上からぎゅぎゅと塗りつぶして家の人間が起きてくるまでにひっそりと何事も無かったように誰も起こさぬように溢れんばかりのグラノーラを強く右手に握りしめて半分くらい口に放り咀嚼音さえにも気を遣いながらドアノブに触れエレベータに乗り込み駅まで何となく早足で移動しベタベタ砂糖が付いた手を舐めながら制服に擦り付けて水分を取っ払い定期をリュックサックのように背負っている手持ちバックから定期を取り出して改札をくぐり抜けていくのである。帰りというのは近くの公園で冬のそれはそれは冷たい水、蛇口をひねって隅田川の炊き出しの列に想いを馳せながら次世代平安風オシャレメイクをそっくり落として赤く霜焼けのような笑顔で夕刻、玄関に足を踏み入れなきゃならんわけである。

私は教室の後ろの窓側にいた。勿論、例の如く背後には掃除用具のどっさり詰まった縦長のロッカーがあった。埃のあのきつい匂いはそこまでないが、昼下がりに関わらずカーテンがそれは全開で陽の光がまともに机にあたって眩しく、私は常に目を半分閉じたか開けたかの寝起きのマグロのような状態で着席していた。これはあの女教師の標的になるにはかなり十分であったが、突然大体どうでもよくなって、お日様を恨む気持ちも私の中には特に芽生えずに、寧ろなんだか幸福につつまれたような気になって何故かニッコリと笑顔を作ってそれをあの女教師に向けてやった。

私の他に、この刹那、女教師に顔を向けているもう一つの存在を私は確認していた。教室の私の真逆、廊下側の前席にいた彼女は真剣な鋭い眼差しを黒板の方に向けている。私は彼女のことを知っていた。いや、同じクラスで一年以上過ごした人間に使う言葉では無いかもしないことは重々承知であるが、これ以外に使うことばがさして無いのである。私が彼女に対して知り得る情報の唯一は、彼女が茶道部に所属しているという事実とある一つの光景である。記憶は学園祭、プラスチックの容器に並々と入った緑の汁だくを箸でかき混ぜて抹茶を溶かし、片手でテンポ良く、かなりの高速で長机に並べ、量産する例の姿であった。形式的な美を所望する一行に属しながら、それとは程遠い彼女の所作に、私は何か感動を覚えた程だった。私は何となく彼女の方を見て、きっと彼女は自信に満ち溢れていて、この女教師を満足させるに至るだろうと、漠然と思った。というより、そう思いたかった。

 

彼女がいなければ、恐らくは、だいたいどうでもよくなって、のほほんと日向ぼっこを始めていたあの瞬間の私は、大袈裟に言うと、救われなかったであろう。私はそれなりのリアルな恐怖がジリジリと迫ってくると、どうでもいい下らない妄想を膨らませる癖があった。それは、その恐怖を小さくしたり克服しようと努力するのではなく、逆に自らでせっせと膨らませて、その恐怖の風船たるやをぶち割ってしまうのである。パンと弾け飛んでしまえば、不思議なもので、大体どうでもよくなってしまうのである。

彼女が見つめていたのは私と違って女教師なぞではなく、黒板の上に取り付けられた、ひとつの時計だった。無論私も薄々感づいていたが、恐らくは彼女は答えなぞ、全く用意をしてはいなかったと断言できる。彼女は窓から見えるグラウンドの横にある駐屯基地での自衛隊の訓練開始の時刻を恐らく、知っていただろうし、あの女教師がヘリの風切り音が大の嫌いで、授業を中断してでも外を眺めることによって、あの不快感を皆に表明するあの癖を、把握していたのであろう。