わたしは、ぼけっとしている。
ぼけっと、している状況にある。
家で。
幾分かの力も出ない。微塵も。
年末というものが、わたしをぼけっとな人間にさせてしまうか、ただそれは理にかなってない。そうは思う。
多くは、年末であるから仕事を片付けようとぼけっとしないのであろうから。
皆、仕事を片したいのだろう。
それは家族団欒の中で、箱根駅伝の中で、仕事が脳をよぎるあの瞬間を、あの感覚を嫌うからであろうか。
そのために、皆ぼけっとしないのか。
いや、それもなんだか違うという気がする。
そもそも、わたし以外のひとは、ぼけっとしていないとは、断定できない。
その術を持ち合わせない。
teamsのアイコンから、我々は何もわからない。確かはない。
だから、皆はぼけっとしている状態かもしれないし、またあるいは、ぼけっとしてない状態かもしれない。
わたしが、人類のぼけっと状況を把握したところで、何があるかはないけれど。
仮に多くが、ぼけっと状態であれば、わたしのぼけっと状態、動かない状態を肯定できる可能性はある。
すごく、日本人的だ。
日本的。
誰が、肯定するのか?
主体は多く、がで、わたしは自分が肯定したと錯覚する感覚、した気分になる。
特に問題はなかろうか。
なぜ問題なからろうか、と私は言ったのか。
それ自体が問題かもしれない。それが問題であるような気になるというか。
つまりそういうことなのだろうか。
お仕事とやらに、もどろう。
終