炬燵、炬燵、炬燵、こたつ。ここまで仰々しい外見をしながらも対象を優しく包み込むあの包容力にギャップ萌えを禁じ得ない。
妻の祖母から寒くないかとしきりに聞かれるのだが、そのたびに大丈夫です〜とテキトウに返事を打つ。これ、有給の人が設定する自動返信メールみたいだ。
強。に設定されたこの温もりを超える温もりのなかで、新年の抱負などというものを考えようにも、なにもことばなぞでてこない。そもそも、炬燵で練り上げたその抱負に説得力はあるのだろうか。とはいっても何もせずにダラダラと今年をこれまでと同じやうに終えれば、それこそ、また一年後の2024の大晦日に後悔するのかもしれない....そういう恐怖が我々の中にあるのではないか。
そうすると私たちは有限不可逆な時間の中で後悔しない為に精一杯その人生を謳歌する、ということが最も大切なことで、私たちは時間を無駄にせぬように何か「目的」を設定すること、これこそが正月の最善であるということを永遠言い聞かせ(られ)てきた。
でも、結局それはとても正しい。自分はやたらとここ15年ほど目標とか目的とか言うものをやたら毛嫌いしてきたとようにおもう。ほんとうになんちゅうことか。ちょっと捻くれちゃってないですか?アンタと詰問したいところだが、よろしい若気の至りということしておきましょう。すくなくとも私の感性は、少し遠いところからそれらをめんどくせぇと言って蹴っ飛ばしながらこれまで生きてきてしまったのです。
年越し早々、炬燵から飛び出して人混みにダイブ、PayPayにぞっこんの人類がアルミ・銅貨を好き放題スローイングしまくって一方的に願望を唱えるイベント、初詣はめんどくせぇの最たるところであるが、逆に考えれば、人間はそのめんどくせぇに、サラリーマンの貴重な休日を消費しながらもこれだけのパワーをかけることができる変な生き物であることはほぼほぼ間違いないわけである。しかもこの摩訶不思議な生き物たちは、自分が何を信仰しているか、浄土真宗なのか真言宗なのかもよく理解していない始末である。(私も含め)
それでも私たちは、このめんどくせぇのビッグウェーブに乗っかり乗っかられ流されながらも、ナンヤカンヤこのイベントをそれなりに楽しんでいる。炬燵の外に転がっていることは、大抵はやる必要性もないことなのだが、これを今年もやらねばーとかお節作るのめんどくせぇ!とか思いつつも、わざわざ炬燵の外のものと積極的に対峙したり戯れたりもするわけで、これだから人間は辞められんのじゃーと人間様のツンデレ具合を肯定してみるも、年明け早々、万物肯定の潮流が自分の足元をさらっていくことに気づく。
万物肯定。短所を長所に、適材適所、そういったスローガンたち。私はもう、そういう言葉にうんざりし始めて来ていた。何か角度を変えれば、どんなに醜悪なものでも役に立つのか。トーマスもあれだけ役に立ちたがっているが、何であんなに、役に立ちたいのだろう。