GALAXY a20

7000円のスマートフォンを買った。GALAXY a20という機種だ。親指が使っていたiPhone6と比べてもよく滑る。摩擦がない。滑らかだ。ここまで文字を入力するのもいつもに比べて倍以上はかかっているが、a20(相棒)のせいではない。

とてもいい買い物をしたと思う。ノッチの部分がエロい。

イートイン爺

わたしは中々、独りというものに飢えている。このように書くと、わたしはつくづく幸せものだと気付かされる。わたしのことを好いてくれる人間もいるからだ。わたしが常に孤独の中にあれば、わざわざ手間を掛けて孤独を望もうとすることもしないだろう。

 

わたしが今、腰を落ち着けているのは、コンビニの飲食コーナーの一角だ。先程から店員と客との揉め事が騒がしい。内容に聞き耳をたてているとスポーツ紙をぶら下げた爺さんが、店員に向かって一方的に文句を垂れているようだ。爺さんはイートイン申告をして軽減税率対象外なのに関わらず、申告をせずに軽減税率対象の恩恵を受けた上でイートインコーナーの一角を占めている阿保客(多分わたしのこと)がいるとかで興奮しきって今にも口から手榴弾位は吐き出しても納得できてしまいそうな形相、眼光を彼は備えた。

 

わたしがコンビニのイートインコーナーに坐していたというのは、その例の、独りにしてくれ活動の一環だった。孤独を愛する男の聴覚と視覚は少なくとも、イートイン爺の白濁して粘り気のある鼻声と歩道の脇に避けられた雪塊のような、なんというか白髪がやや優勢であるかのような、いと鮮やかな絵画によって失われてしまった。

 

店員に曲がりなりにも相手にしてもらえている爺、その鼻声がナイアガラの滝壺に落ち込む最中、わたしは残りのコーヒーを呑み込み、そして席を立った。

 

 

 

死と作品

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昨日、あれが死んだ。その死は、予め、定められていたものだった。が

twitterをみる頻度が以前に比して激減し、トレンドというものに、世間に背を向けるまさに情報弱者と言わんばかりの私が、このワニの話題に触れることになったのは、お嫁様のアンテナのお陰とでもこの際言っておくこととしよう。

世の人は、皆、このワニに熱視線を注いでいる。リツイートも150万だかを超えている。

わたし自身、まだこの作品に触れていないが(そのうち1日目から読もうと思う)、何がここまで世の人々の心を動かしたのか?電通案件だとか、金の匂いがする等の暇人オタクツイッタラーたちのまどろっこしい議論は一旦置いておいて、この作品の死の扱い方・捉え方に焦点を当てた方がよっぽど有意義で楽しい。

 

私は“天元突破グレンラガン”(熱血ロボット系アニメ)の第7話で主人公の兄貴が殉死すること。“タッチ”の完全無欠野郎の弟が交通事故であえなく、無念、天に旅立つこと。これらの事象を把握した上で、それらの作品に1話から順に触れていった。(その死が有名で一人歩きしていたため、わたしもしっていた)

物語を読むにあたって、主要な人物の死を知りながら其奴の言動に着目するのはもう、それはそりゃ神のような視点に他ならぬ何者でもない。

なんというか・・・摩訶不思議な気分である。

物語の中で扱われる死は、通常、刺激が強すぎてビリビリ痺れてしまうような、強烈な作用・意味を持っている。作者は不用意に、無意味に自分の創造した人物を殺すことは、ほとんどない。とてつもなく大雑把な例を挙げるのならば、あるミステリー小説を思い浮かべると、「脱出不可能な無人島に唐突に招かれた客人たち、次々に奇異な仕掛けで殺められる・・・」その死は犯人の足取りを追うヒント、一つの大きな意味を持った一ピースである。(もちろんホラー的な要素の大きい作品には主要人物であっても死亡フラグを回収するだけで特に何も残さずに逝ってしまうということはあり得るが、それも読者に恐怖感を与える、という意味を背負っていると思う)

そういう観点から考えると、死に向かう人物の、時系列的な死の周辺にどんなものが待ち受けるのか?どんなメッセージがあるのか?というものを我々読み手は意識せざるを得ないし、底知れぬ興味を示すのだろう。

“天元突破グレンラガン”という作品は、全50話のなかの先ほど話したこの第7話が大きな分水嶺となりうる。それは兄貴の物語から義弟へと、その意志のバトンが渡された瞬間でもあった。7話以降、主人公である弟のシモンが大紅蓮団のリーダーとして皆を強烈に牽引し、ゆくゆくは宇宙の片隅で、銀河系をフリスビーのように掴んで投げ合い、この宇宙の旧いシステムを文字通り、気合と、そして気合と気合のみで天元突破してしまう。

 

一方のワニはどうだろうか?全100話のうち最終局面の100話目で、このワニの死が訪れる。最終話での死は、天元突破グレンラガンのあの兄貴の死のように、物語の後に続くもの達に意志を受け継ぐわけではない。それならば、このワニの死は何を意味するのだろうか?われわれにどんなメッセージを与えるのだろうか?

ここでわたしが白状せねばならぬことの一つに、わたしはこの“100日後に死ぬワニ”をほとんど読んでいないという点である。よってわたしにはこのワニが、遺したもの、ワニの物語の線上の未来に残したものではない何かに、我々に直接的に与えられるかもしれぬ贈り物に、触れる資格なぞ到底ないのかもしれない。

しかしながら、一点、不幸中の幸だかわからないが、100日目のみはTL上で目にしている・・・

車に轢かれそうになったヒヨコを救って、彼が犠牲になった。

という話の顛末だったと思う。いや、たった今、自分で文字を打ち込んで思ったのが、これも"グレンラガン的な死"と同様の構造である、という風に見ることも可能であるかもしれない。ワニ(兄貴)→ヒヨコ(弟)と捉えられるが、グレンラガンと100日後に死ぬワニの異なる最大の点は、死んだ後に話が続くか否かである。“グレンラガン的な死”は死の先に物語の続きが存在し、明確にその意志の引き継ぎがなされるが、"ワニの死"では、アフターストーリー、すなわち、ひよこがワニの正義なりの何なりを受容し、この世の悪を駆逐する、といったような続編ものが存在しない限りにおいては、我々の想像の中に、"ワニの死"によって発生した意思やメッセージめいたものが生き続けるのであろう。

 

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わたしはここまであれやこれやと、かなりまどろっこしい一切の酒の肴にもならぬ毛ほどもどうでもいい論を展開してきたわけだがワニの死によってもたらされたものは、物語が終了しますよという合図である。もっと冷酷な、興醒めな表現を使うなら、“彼の死の役割”は、この物語、彼の日常をポップに描いたであろうこの物語の終焉を告げるホイッスルであり、死という厳正で、平等な主審によって裁かれることによって、我々が逆らったり介入できる余地はないのだ。

 

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もう真夜中だ。窓際から外の街頭の光がわずかにわたしの手元を照らしてくれる。親愛なるお嫁様はお布団を両足でブルドーザーのようになぎ倒しながら、鼾を立てている。

わたしははてなのアプリを開く。そうすると、下書きが初めに目に飛び込んだ。過去のわたしがワニの話を書いたようだ。なんとも、わざとらしい呆気らかんとしているが、というのも、記憶にあまりないのである。不思議なもので。

自分の書いた文章を読むのは、あまり気が進まない。そりゃそうだ。自分を客観視するというのが、耐えられないのだ。自分という存在を、他社との相対的な競合の最中に、資本主義的なテーブルに載せることは相当な恐怖である。そういう意味でわたしも可愛い可愛い自国を、保護主義に奔走しているのかもしれない。

ワニの話に戻るが、上で熱心に語っているようだが、おそらくわたしはワニの物語を最終的には一個のコンテンツとして、この好きにも嫌いにもなれない物語に何らか、物申したいのかもしれない。

 

 

 

 

 

駐輪場

 

昼休憩。真っ暗で爛れたオフィスに雲間から一縷の光が覗かせたのだろうか、陽がさっと入る。

わたしは細々と豆乳を飲み干した。うまい。これ以上にうまいものは世に溢れるだろうが、何というか、これがまた手頃な旨さなのである。

外に出ようと、そうおもった。

日本には、たまたま四季とかいう目まぐるしい洗濯機みたいなものがあって、これは大変に変化に富むもので、この特段、桜が咲くか咲ぬかの境界、不連続ポイントに立つ今日の日和ほど私を幸せにしてくれることはないかもしれない。

わたしは工場の隅の通りを歩く。目の前に広がるのは工場排水の処理施設だろうか、研究棟の前に神妙な面持ちで鎮座するそれである。

さしあたり、わたしの目的はこの昼間の散歩の行為そのものにはなく、他でもない。

駐輪場が好きか?と問われれば、私は問答無用で、全身全霊を込めて、好きだと答える。ただ、一つだけ、たった一つだけ条件がある。

それは、時間である。すなわち、昼限定だ。

静まりかえる昼間の駐輪場は、何も起こらない。本当に、何も起こらない。昼ドラヒロインの想像妊娠が発覚し、姑富豪旦那の顔面が蒼白するイベントも発生しなけれは、不法投棄チャリがボコスカ投げ込まれる現場に立ち会うことすら、ままならない。

私ごときのチンケな妄想力では、到底この現状に変革をもたらすことは、それはそれは無理だろう。

ただ、この陽気を前に、そんなことすら大した意味は持たないだろうが

 

にじゅうろくさい会社員がADHDてきな話(分類そして理想との対峙)

確かに、わたしは分類されてしまった。仕分けられてしまった。いや、これがはたして確かなのか?という議論について、わたし自身から語る事は、それはほとんどといっていいほど意味が無く、甚だ不毛であろう。

人間という存在全般において、何かに、例えば社会的に属したり、そういった事で安心感を得る、というのは往々にしてよくあることだ。乱雑に積み重なったあの広告達を、すずらんテープできゅっと縛るように、クラスターを産み出したり、そういったことも私たちは得意であるし、何より、大の好きである。

つい昨日ほど、わたしが妻から聞いたことで、人類を「前者」と「後者」に二分するというものだ。確かに、なるほどなと、物事を三つ以上に分ける事は大層複雑になるが、二つであれば造作もない。「カレーが好きな人」「カレーが嫌いな人」。いや、これでは人類を二分する事はできない。「カレーという存在を知らない人」は好きか嫌いの判断テーブルに乗らないからである。あなたが「真性包茎」か「非真性包茎」なのか?といった表現であれば問題ないだろうか?「仮性包茎」は「非真性包茎」ではあるものの、そもそもの対象が漢に限定されてしまっているので、泣く泣くアウトである。

調べていただければすぐにわかるが、この思想の提唱者である心屋仁之助は4つの質問を用意している。そして、前者後者の分類の閾値として、彼が設けた基準はひとつである。

「人の話を聞いていて、頭が真白になるか?」

一応確認したいのは、この基準がしっかりと人間を真っ二つに引き裂けているか。それについては問題なかろう。この問いにはyes/noで答える他がないし、対象も全人類に向けられている。

これら4つの質問に一つでもyes該当しようものならば、我々はこの「心屋仁之助」によって、即刻、「後者」の烙印を押される訳だ。ここではあえて、四つの質問と前者後者の意味ついては割愛する。

さて、わたしはたった今、「後者」の烙印を押される、と語ったわけであるが、ここにわたしの逆説的な意志を汲み取ることができるのだ。すなわちこれは「前者」でありたいと望むわたしの、健気すぎる哀れな純情なのである。世の中的には前者を望む後者、またその逆も然り。

私は結局、心屋仁之助の手によって断罪されたものの、幻想的な理想と対峙し、少々会話をすることができたわけだ。その点に関しては、彼に深く感謝せねばなるまい。

 

同様にしてわたしはADHDであるというこの疑念が晴れることを願うばかりである。が、大事なことは、これはあくまでもわたしにとって疑念、と評されるだけで、わたしの中で完結する、してしまう、ごく狭い世界での葛藤である。そしてこれは、わたし自身が理想と対峙しそれを求めるという証拠なのだ(文章を書くのに飽きたわたしはトツゼン筆をほっぽりなげた)

 

役員の尻を蹴りたい衝動に駆られてしまった男の葛藤

 ダボついたヘルメット、華奢なメガネのうえに覆い被さる分厚い防護メガネ、くぐもる加工音、塗装とシンナーの香り、つい先程まではそんなものに気を取られていたのか、と思うと恥ずかしくなる。 人間に突如として湧き上がってくる、情動、これは制御できぬものであり、すべての意識を差し置いてその瞬間時間期間を支配し、もうわかりましたと、すみません、と、両手を挙げて降参の意を表すると、最も自分事であったことがふと我に返って客観視できるようになる。 なぜこの様な情動、衝動が現れるのか?それは理解不能である。もうこれは“導かれる”というレベルを超越し“強いられる”のでその情動が引き起こそうとする種々の行動に対して、抗わなけばならない。そう、抵抗が必要なのである。

 

  防護メガネが野暮ったいとか、工場内がバチバチ煩いといった些細な感覚は、行動するというレベルまで昇華していくことは、まずありえないのである。あり得ないとは勿論過激な表現だが、少なくとも、この工場安全セミナーの中で、重役立ちが出席しピリつき重々しい空気感、ひきつった顔で当月の事故報告をするライン長。工場内での安全は何よりもプライオリティが高くこれに勝るものは無いというのは、この場に集い、工場のひび割れたコンクリを対の己の足で踏み締め、両手を後ろの腰の辺りで組み、その場に存在するだけで、己に刻み込まれる。小手先の安全対応だけでなく、安全の意識、安全オペレーションシステムが我々に書き込まれ、直ちに組み込まれるのだ・・・ わたしたちの眼前に唐突に一人の男、が現れ、ちょうど、わたしの前方50cmほどに立った。ヘルメットの形状が他の現場作業員と異なり、トップの部分がせり上がり通気口の様なものが流線型の連続の先にきれいに繋がっている。シャアザクの様に角を生やし差別化を図るといったパフォーマンスまではしないものの、これが平のそれで無いことは、誰が見ても一目瞭然であろう。上半身は立派な体躯なもので、現場の手練れの作業員を想わせるそれだが、下半身は作業着でなく縦のラインが入ったスラックスを履いていたからか、すっと線が細い印象を与えた。ちょうどヘルメットと合わせてもアメフト選手のようなそれが、わたしの目の前に立っている状況だ。 言うまでもなく、この方は工場長だということが、すぐにわかった。1000人を超える現場の頂天に君臨する男であり、その風格たるや、纏し気品にわたしは思わず息を飲んだ。 突如、わたしの胸をドン、と、ドンと強く一点、打った。刹那、右脚の感覚が、何とも、なんとも妙な感覚に襲われる。小刻みに震えているわけでもなく、痛みがするでなく、ただ右足が前方に、分速で言うところ2、3cmほどかわたしの意識とは裏腹に動き始めた。もう片方の左脚でこの人集りから抜けようと試みるも虚しく、ピクリとも言うこと聞かない。動かない。右脚は徐々に前進し、左足は微動打にせぬこの状況を必死に解釈をしようとしてもわたしの気持ちははやり、余計に焦る。 焦る中でわたしの冷めた一部が原因を導くまで、そう長くはかからなかった。というのも、わたしの右脚が、ジリジリ前進していた右脚が突如と地面を離れ、足の甲をピンと張り、ゆっくり後ろに引いたのである。 その所作は、弓道のそれを思わせ、わたしの足の甲はこれから何かの対象をまるで射抜くのだろうということを自覚した瞬間、眼前に心当たりがあった。 ああ、何ということだ、と、わたしは、工場長の尻を今まさにインステップキックで一発と、そのモーションの最中にいる訳で・・・いや・・今これは、たった今実感に変わったが、わたしは工場長のケツを思いっ切り蹴りをかましたい衝動に、欲求に駆られ支配されている。この地球外生命体のような得体の知れん衝動はどこから来たのか、正直今考えている暇はないしどうでもよい・・・・強いて言うなら工場長のケツがちょうど良い高さとなんともちょうど良い加減だったからで、別段大層な理由なぞないのである。ひとつ言えることは、わたしがこの安全セミナーの最中、工場長のケツを蹴りとばしたならば、乾いた音がなりひびくや、わたしのほうへ数多の視線が向けられることはほぼ間違いなく、即座失職するだろう。 ただ、そう思うや、振り上げた右脚はまた少しずつだが、なぜか屈強な男の方へとその無慈悲な歩みを加速し始めた。 死にはしないのか・・・・ わたしは吐き出すようにその場で呟いた。前では機械課の係長が改善内容を披露しており拡声音が響きわたっている。わたしがこの一途期の、ほんの一瞬の快楽を、それを手にしてもなお、自分の人生が続いていくことがにわかに信じられないのである。いや、これは明かに死に値する麻薬であり、その覚悟を持ってして、初めて成就されなければならないと・・・・ そう思った途端、わたしの右脚は力を失い、ひらひらと地面二おちた。眼前の男は振り返りわたしの尻をポンと叩くと、その場を去った。  

妻を褒めちぎろうとしたが脱線してしまった

華金たるや皆さん、いかがお過ごしでしょう?こんばんは山本です。

週末の開放感、しかも仕事始めの週というのも相まって、それはそれは格別なことと思います。最高の気分です。

わたくしも、鍵を開け玄関に到達した刹那に工場靴を身体からパージ、放出し、その推進力を余すことなく利用して柔らかいんだか硬いんだか何ともコメントのしようがない絶妙な、あのソファーに頭から、軽度に首を捻挫しつつも飛びついてはぐでっとし硬直、一時間という量の時間が無残にも霧散いたしました。

ただ、この一連をしているのは何も、記念すべき華金に限った話ではないことは、私の口から発せずとも察しがつくのではないでしょうか。

この一連が、永きに渡って、古代太古の古のその又、小野妹子が海外留学に渡ったさらにその昔、常習的な私の堕落的な生活の一部をお披露目して共感をしたいという邪な考えも勿論全くないとは言わないが…わたしが主張したいのはこの一連の行為は、ただ単に、わたくしが物事一定が大好き原理(ごめんなさいそんな言葉ないです変化を嫌う的な意で)に絡め取られているだけだということである。

原理的な観点からみると、わたしがソファーでくたばっておるのは、これは全知全能の作者視点から見ると予定通りだし、大分筋書き通りである。

わたしからみりゃざけんなこんなはずじゃあぁと両手を頬に当ててムンクの叫びっぽいお茶目をしながら、この時間を使えば簿記三級合格に一歩近づいたとか世界中のJKが歓喜する新作ボードゲームのコンセプトを考案できたかとか農家に行って収穫の手伝いをしながらちゃっかり流行りの技術を布教して回ったりだとか夜で洗濯物が湿る前に取り込んでお嫁さんの機嫌を損ねずにすんだとか、兎に角、色々何かしらの行動は取れるわけで、ちょっと後悔する訳である。

だからわたくしは、後悔を恐れるあまり、常に原理的な物語を書き殴っている得体の知れん奴に監視されているという意識を持って、そいつの想像の範囲圏外に出なければならんという、半ば脅迫的な観念に駆られて、生活を送らねばならのだろうか?そうすれば自堕落な時間が圧倒的成長!!を遂げる眩く煌びやかな時間や楽しい時間へと変わっていくのであろうか。

そんな陳腐で面倒な考えを持つ人は多くいると思うが、皆んなきまり決まって全知全能の範囲から脱出することはできないので、よし、なるほど、と、摺り足で神様に背後忍び寄り、すっと、彼の穴あきデニムだかスキーニだかを高速で引き、更にはブリーフだかボクパンだか立て続けに下に引っ張り、全恥全NOパンぐらいにしてしまっても正直、全く心が痛まんですが、わたしが直接そんな小学4年生でもせぬ愚行とも言える行動を取ったとして、彼が全知全能であることは変わりない訳で結局は各々にあるその方程式、仮定を破壊するしかないのでしょうか?わたしは殺すとか物騒で恐ろしいことはしたくないので、とりあえず彼の処遇は、暫定的ではあるが華金ですしわたしも上機嫌なのでノーパンぐらいで勘弁しておくとしよう。その代わりといっては少々何ですが、わたしもソファーの上で寂しく、自堕落をしながら飲み会でおらぬ妻の帰りを待ち、後悔に浸ろうかと、そういう所存である。

結局、ソファーに沈みながらも神をノーパンにさせるという自堕落とは程遠い、そんな華金を過ごしたが

わたしが今日本来やるべきことーそれは妻を惚気ついでに褒めたたえる文章を連ねるということで、そういう心持ちで文字を繋いでいたのですが…

というのも、せっかく結婚をしたというに友人などから何が好んで妻と結婚したかを問われても、はっきり言語化できない、という事態が年末年始に立て続けに発生したからだ。

というわけで妻を褒め讃えるお話はまた、いずれかの機会にしようと思う。

それでは、よい金曜を

巨匠とマルゲリータ①

こんばんは。ごきげんよう。山本です。

先程、帰宅して間も無く「巨匠とマルゲリータ」を読み始めたのですが、悪魔だの何だなの話になって詩人で主人公のお付きの編集者がよう分からん外人オッドアイ男に、お前はこのあとすぐに女に首を刎ねられて死ぬぞ、とひとつ予言されて、一旦は拗らせオッドアイが何かいっておりますぞ??的なノリになったものの、彼の予言通り、宣言通りにその編集者は首なしとなってしまうのでした…

わたしがこの本を購入したワケとしては至極単純、タイトルが純粋にぐっとだったからですね。ホンマにそんだけです。

が、ここまで早々に首が地べたを転がるとは思ってなかったので…まあとりあえず、続きを読み進めていこうと、そう思うわけです。

 

※タイトルはドヤ顔de①と銘打っておりますが、②があるとは限りませんので、その辺はご了承頂ければ幸いです。

 

 

あるあるをもとめて

わたしの前でお嫁様は数独に取り組んでいる。コンビニで売ってる段位認定ができる数独本で、お嫁様はコンビニでトイレを借りたついでに購入なさったのを、わたくしはしっかりと承知しているのだ。

傍のスピーカーからはTBSラジオ、ハライチのターンが永遠、流れおり、それも年越しの放送分での"あるある"ネタを108の煩悩を浄める除夜の鐘のならって、視聴者からぶん投げられる108あるあるをハライチ岩井が片っ端から不協和音的リズム感で認定していくといった内容である。

放送中のあるあるを一つだけ取り上げてみると、#大抵の唐揚げ屋金賞とりがち#というもので例の数独で大忙しのお嫁様も細々、わらい始めたかと思えばゲラゲラ笑いだしてとうとうペンををばこーーんとテーブルに投げ出してクロスワードの問題(制限時間60分)このもんだいむりーぃーむずすぎーとニコニコ嘆きをわたしに振り撒いてくれたわけだが。

そのときというのも、わたしはお嫁様の可愛さが爆ぜているまさにその最中、わたしの思考はあるあるをただ、模索していた。あるあるを渇望した。かなり乾いていた。わたしは広漠とした砂の丘にいた。フタコブ駱駝の背中、コブとコブの間にわたしの股間がすっぽり収まっていて何やらむず痒い。蒸れる。蜃気楼、空と砂の境界の靄からピンクのツタンカーメンが現れる。刹那わたしの眼前に移動、フタコブ駱駝の脚がガクリと崩れ落ちたわたしも平衡感覚を失いながら真っ逆さまに砂の上に叩きつけられる。ピンクツタンカーメンがフタコブ駱駝細長い脚を蹴飛ばすか何かをして、はては、どちらにせよ何らかの物理的暴力的処置を、この無防備な駱駝に施したのだろう。

わたしは目を開けると、顔にパックを付箋みたくぺたぺた貼り付け妻の姿があった。わたしは結局、ラジオを聴きながら、片手間に妻のクロスワードを手伝った。

 

 

 

あばよ2019

暮れの暮れ、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

わたしはというと、お年賀の品を入手し妻の祖父母の宅で座ってコーヒーを飲みながらデパ地下で買ったケーキを皆で頬張り、あたふたとふるさと納税を済ませてから年賀状を購入しにコンビニにお使いに行き、と。

そんな常々、日々の生活からは幾分か剥離した1日であるものの、想像の幸せの範疇でぴたっと収まった暮れの今日を送る私に、一通のラインが、ある友人から届いた。

その、ある友人というのは、Fという飛行男である。F氏はこの山本の日記の中でも度々登場し扱われているが(どこで登場したかはわたしも確かではないが)大学以来の友人で、ヒコーキに恋をしており、かなりそれ大層ベリーベリーヒコーキに恋をしているので重度の飛行男ある。私とF氏はこれまで何度か自転車で各地を回って遊んでおり、そういう仲である。

で、彼の紹介はここではあえて深く突っ込まずにおくことにして、届いたラインは以下を確認して頂ければ、わたしが直接語ることは一切無用であろう。

末筆ながら、年賀状の製造工場が佳境ということもあって、ここいらでお暇させて頂きます。

 

博多(福岡)~霧島(鹿児島)野宿ライド - 福地工房