腐らせたらよくないという発想

あらこんな時間!今晩のおかずは、えーっと、とね、賞味期限が明日の鶏のもも肉が冷蔵庫の中に鎮座しておったのでーこの鶏肉を使おう!

という脳の思考回路が開き、それは間も無く実行された。

人間とは、つくづく、成長できる生き物であるということを実感せざるを得ないのだ。というのも、わたしが何気無く今日行った行為は、かなり称賛されるべきことである。

・冷蔵庫を開けて、無意識に賞味期限をチェックした

・賞味期限切れは悪きものである。少なくともポジティブではないことを、というより、明かにネガテイブであると認識した。

・賞味期限が明日なので、この瞬間使うか、冷凍するかをせねば、ならんな。素直に思う。

上記のような判断、思考は、理性の賜物とか論理的思考とかの問題でなく、あくまでその人間の感覚の領域の話であって躾とか脳のいらん癖とか、要は癖であるのだ。今はこの例の癖を矯正している真っ只中なので、かなり称賛されるべき行為とかほざいているが、それが癖になってしまった暁には、何も感じずに私の前を過ぎ去ってゆくのだろうか。

そういえば、この癖という言葉は基本(悪)癖であり、(無意識下)に生まれるものを指すことが多いような感ずる。一方で、(グットな)癖は、習慣というような程度(意識的)に制御された、というニュアンスを含み棲み分けがなされている。こういう棲み分けは、(悪)癖である。

この悪たるや、(無意識下の!)習慣、ようは深いところに根付いた、賞味期限は悪きもの!とか、掃除機を3日かけんと身の毛がよだつ!とか、躾とかから来る慎ましやかながら地味でいい仕事をする奴らは、筋トレは人生豊かにするとか(たまにわたしもしてます)とかバレットジャーナルで日程管理して最高の自分精製しましょうとか(まえまでしてました)、そういう強い意志力が必要な度派手なハイカラさんの背後にどうしても、埋もれて隠れてしまうのです。癖という言葉が(良)をもカバーすることを願わんとす。

 

 

 

 

 

仏に内緒で、ケンタッキーにいるのはわたしである。

18:47分

ケンタッキーにいるのはわたしである。

 

こういう言い方をするに、現在、ケンタッキー店舗にはわたし以外の人間は一切存在しないという、そういう感じを受けなくもない。そうすると店内が暗闇に包まれ、カーネルサンダースの笑みが不気味に浮かび上がる。

実は書き出しの、ケンタッキーにいるのはわたしである、という三省堂の中学教材の例に扱われそうな平易な文は、ここには、もう少しばかりお化粧をこしらえる必要があるわけだ。

何故、わざわざそんな馬鹿げたことを若い貴重なたいむいずまねーでプレシャスdeゴージャスなタイムを浪費して書き、しかも無残にネットの海にザバザバそれを垂れ流し、多くの、時間という名の第一か第二か第三のそこいらの恋人を大切にする方々から多少なりとも、それを取り上げる始末であるから。それ相当の高尚な理由がなければならないと思うのは、かなり真っ当な意見である。

ただ、わたしにはツラツラとここに説法のような理由を述べている時間がない。18:51....すでにipadにタイプし始めてから時間は勿論、止まることなく足早に流れる。

 

妻には何も言わずに、ケンタッキーにいるのはわたしである。

 

これでとりあえずはケンタッキーにわたし以外の人間の生命の息吹が吹き込めるかもしれぬ。ははは。この文言を挿入した途端、気づけばわたしの横の四人掛けは歯が皆無の老人に占領されているし、そのさらに奥の窓際には疲れきったリーマンが残業規制の余波というかをもろ食らってメロンソーダ片手に泣く泣くgyoumuに取り組んでいる。いや、しかし、彼等も今晩はケンタッキー行くんで夕飯いりませんとか、そんな報告をするのは不自然である気もするし、おまけにリーマンは恐らくはメロンソーダしか注文していない。横の夕刊広げる老人なんか、そもそも、もう独り身かもしれないと思うと、この文言は一意でなく不正確な感じがしてをまたしても修正、いやお化粧せねばなんように感じたのだった。

しかも、このお化粧のままでは、まるでわたしのお嫁さんが恐ろしいもの以外の何者でもなく、わたしの一人の時間とやらを乗っとる侵略者にも、最悪、最悪の場合聞こうるわけである。寛大な妻は勿論そんな悪党でも何でもなく、わたしが全人類の中でも最も信仰する人間の一人だし、唯一、欠点という欠点を強いて挙げるならば、彼女は家中の至る所で、7年間土の中を耐え抜き日の目を浴びたセミの真似をしてしまうのである。コートやパジャマやズボンが廊下、リビング、台所、ありとあらゆる場所にすっぽり、美しいまでに、その抜け殻だけが虚しく転がっているのである。

ということで、今回の悪党は、この場合、わたしのみであるから、冒頭の文句に登場する妻には最大限の敬意と皿洗いもろくにせず一人でこそこそケンタッキーなぞで浪費し申し訳ないという後ろめたいわたしの勝手な妄想を込めて、このブログのタイトルで妻に煌びやかなお化粧を施し、現場報告としよう。19:03

 

も、もしかして、ただの反抗期?(26歳)

令和元年12月3日。

寒空の通勤、自身にこんなことを問いかけた。その問い自体はありふれたものだし、今日の今朝に限った話なぞでなく年柄年中やってる遊戯である。

「わたしは組織に向いているのか?

そんな月並みの、何時もの、内向き加減をやりながら、同時にこんな返答を期待した。

「いや〜〜ヤマモトクン。君は組織たるものには一向にむかんよね

「ですよね。僕も同感です。

 

わたしは工場の外れの門からカードリーダーを通して回転戸を潜り中に入った。今という時間が朝で、これから永らく1日が始まるという感覚が一切、自分を襲ってくることはなく、かといって何ものかに期待する感情なぞ勿論芽生ず、無糖のゼリーの中にダイブする10秒前、その寸前の人間の心境はこういうもんなのかと、一切無関係な事項を脳内で流しながら、職場の席にむかった。

オフィスに入ると、おっさんたちが壁側に一列に、ぴっちり整列して音楽に合わせて腕をBUNBUN、ブン回している。ラジオ体操。始業前のオフィスは薄暗く、ブラインダーの隙間から入り込む唯一だけが、真剣なおっさんの表情を明らかにしてくれた。席に到達するや、わたしは微秒にブスッとした声でおはようございますと一言、文字どおり告げて、反応を待つことなく乱雑にバックを地べたに置き、上着をゆっくり脱いだ。わたしの席は、研修生用の席らしく、どういう訳か向かいはグループお偉い様方が連なっていて、ちょうど日本海側の平野部からアルプスを見上げる様な格好になっておった。彼等はわたしの反抗期の帰宅少女のような乱雑な挨拶など、微塵も、気にかける様子すら無く、わたしもそのお陰もあってか特段の期待をそこに折り込む必要がないのは、気楽なもんである。いや、彼等はリズミカルにBUNBUN色々ぶん回してて忙しいもんで、反抗期少女の淡く、幼い微弱な信号なぞ受け取って暇はないのかもしれない。

私の席からみて、反対側、アルプスの左端、一人のおっさんはラジオ体操に参加しなかった。このおっさんはラジオ体操には参加しないタイプの人間だった。CX。彼の名札に、役職はそう記されていた。(現場上がりな事以外不明)アルプスは右に向かう程力が強い、そういう単純明快システムなので、CX、と銘打った50過ぎのおっさんはアルプス最弱の座にいるわけだ。CXはよく悪態をつくし、愚痴を溢すや、愚痴しか溢さず、責任の重そうな仕事なんかはシューティングゲームのようにスルリ、華麗に回避した、基本、逃げ腰だ。先ほども言ったが、このCXはラジオ体操をしない。昼飯は食堂には出向かず、プリンとシュークリームを貪り、歌舞伎揚をボリボリ、凶悪な音を轟かせている人間なので、到底、健康への関心が皆無であるから、ラジオ体操なぞしたかあないのである。

だから、至極真っ当で、よって、彼はラジオ体操を行わない。

わたしは、というと席についてからは、PCを開き、妻の好きな上司のFacebookをみていた。身体を動かすことそれ自体、とても有意義だと思う人間であったが、わたしは向かいのCXの人が身体を一切、動かさないから、と、どちらかと云うと組織的な考えにどっぷり漬かり、支配されたのであった。

 

 

 

 

 

ミニ四駆屋行きました

以前もどこかに記したのだが、私といものは、この世に生を受けて以来といもの、憧れの触手を四方に伸ばしてきた。ほんの幼少期のころはウルトラマンに、小学生に上がるとあの魔術的に球を支配するロナウジーニョに、何があったか、私自身知る由もないが..中学に上がる頃はコミケに意気揚々出陣するオタクの皆さんに人間的興味が移り、大学以降はオタクを追って入った理系学部で出逢った人間に感化され、技術をあんなに楽しそうに語るオッサンたち、彼らに純粋な羨望を向けた。

こんな日曜の昼間の真ん中らへんにこんなつまらぬことを書き記しているのは、なんとなく、久しぶりに義務的で儀礼的なブンショから解き放たれたいと願う、わたしの無意識の衝動、その一派がどうにもならんくなったという半分の愚痴に加えて、わたしの憧れが次のステージに移行しつつある一つの変曲点を迎えているような、そんな感じを受けたから、であろうか?

この次のステージへの予感、それはきまって、これこれーーが引き金となる。これとは、あの無力感と諦めである。悪い意味での諦めではない。だからわたしもこの感覚を味わうまでは、自分は確実にロナウジーニョになれると信仰しているし、それは無力感が背後から襲うまでは、夢見心地、風なびくアルプスの草原を駆けずり回っているワケである。わたしはそれなりに内向的で自分を責めがちな人間であるが、一方ではトンデモナイ幸せもんである。

少々、立ち止まって考えてみる。

わたしのこれまでの憧れシリーズを俯瞰して共通項を見出したいが、ぱっと見、彼らはなんか、なんというか楽しそうである、わたしなぞが楽しいとかそういう言葉を発する暇もなく、四隅から純粋、溢れている。

 

一昨日、わたしは妻と友人たちと、飲みの席でミニ四駆を買いにいこうという運びになった。妻とわたしはわりかし新しい経験に飢えている人種であったが、正気に戻るや、友人たちはあまり乗り気とは正直言えなかった。(ほぼ強制的に道連れにした)

蓋を開けてみれば、もうわたしがここの文脈で事実を述べる必要は感じないが、彼らは私達夫婦の想像を遥かに上回る興味を示した。店内のミニ四駆コースに張り付く玄人に前輪駆動がー摩擦がー云々、ミニ四駆のテクノロジーに彼等は惹かれた。

 

 

 

 

話がちょっくら長過ぎる老人

唐突だが、私が前にいた寮の長、その寮長の話は大変、長い事で有名であった。その話の長い寮長は、一説によると、Twitterをやっているとの噂がある。

寮長がTwitterを行っているという事実が、何故にややネガティブなニュアンスの噂として、それを伝ってて他の寮生の中を流るるのか?

そこにはあの話好きな老人、帰還した灰色の寮生をアニメ一話分程度は玄関ロビーで塞きとめ、御婦人の惚気マシンガンを浴びせしめて、紆余曲折つづら折りの登坂車線を爆走したのち最後に朝ごはんを食わんとは社会人失格だという理不尽極まりない烙印を皆の、一人一人の額に丁寧に押し、我々一同は根刮ぎ大木がへし折れる暴風の中全裸で身震いしながら嵐が過ぎ去るのをじっと待つのである。我々皆の足に、依然としてはめ込まれいた。工場の、あの重鈍な靴が。

還暦を超えた初老の男がTwitterを貪る。仮に彼が現役アイドルに粘着気質なリプライ、という名の火炎瓶を叩きつけてそれなりの火災が生じようが、彼の年輪の具合などは到底話題にはならず、そもそもわからんので議論の対象にはすらならず、そういう人間はうようよそこらに彷徨っているのである。よって寮長という年齢的制約は、Twitterをするということに対する制約にはなり得ず、全くの無関係であるし特段稀有な事例でもないのだろう。寧ろ、Twitterは彼にとって素晴らしい遊戯である。管理室の防犯カメラ映像の横に鎮座するテレビにそろそろ飽きてくる、昼ドラの展開に限っては五感のうちの視覚と聴覚の差し押さえを喰らったとしても何とかやり繰りして脳内スクリーンの果てに映像を起こすことくらいは彼に言わせれば朝飯前だと私は踏んでいる。

長らく、纏まらなく記したが、私は彼の存在を強く、ただ肯定していたいだけだろう。

 

 

 

これはただのハリケーンなんです

わたしは家の鍵を開けて玄関をくぐる。

白色光、布団もふにゃふにゃでソファーも断層ズレ地殻変動のごとく位置、 配置も変わっているようだ。飛び散った書類にチラシ、水位の少々下がった飲みかけのコーヒーに見たこともないものが詰め込まれた見たこともない段ボール。

わたしが出勤するのは8時00分。お嫁様の出勤は8時20分。

この短時間でこれだけの甚大な被害を与えられるのは、これは自然を超越した大そうな鬼才である。

わたしのお嫁様は仕事が早いことで巷では有名であったがその実力たるを今回の被害状況を一目、一見しただけで垣間どころではなく脳裏にしっかりと焼き付けられる。

 

下記の絵は、マリーアントワネットな罪深さを誇るわたしの豪奢な昼食の製造現場を示したものです。

 

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Fig.1  調理様子図

 

当たり前のことをドヤ顔で申し上げて誠に申し訳ないが、これは我妻の愛妻弁当である。新婚生活たるもの、妻が毎朝玄関まで仕事に出る夫を見送り、そっと、軽いにこやかな笑みと共に、これを持たせてくれるものである。

加えて

「山本、今日もおまえのパン黒いな」

という御言葉を毎昼、課長から頂けるのである

 

 

破局しました。ハロハロラムネ

行き場を失った私の想いは、何処に彷徨うまでもなくコンマ5秒でベルギープリンぱふぇへと向かったのだった.…

 

「ベルギープリンぱふぇで」

わたしは言い放った。二言はない。咄嗟のことに多少の動揺が露見していたのを、店員のキャワな女子は見逃さんかったとは、思う。

確かに、私のハロハロラムネ味への想いは日々日々膨らみ強固になっては膨張することを繰り返して、その内巨大な羊羹の様にわたしの腹の底で勤務日中に渡って鎮座し始めるやその存在感を遺憾無く発揮すること、わたしのハロハロラムネ味への愛は結構、そりや大変なもんなのである。

小宵、わたしがベルギープリンぱふぇと座を占める公園のベンチからは、綺麗な鈴虫の音色とノイズの効いたラジオが異様に爪と髪が伸びた老人によってもたらされており、自然な折り合いが付いた、端整な空気感に包まれている。

わたしは、そろそろお嫁様からお呼び出しを喰らう頃合いだろうと抜かすや、スマホの画面に噂の主が現れよった。リビングの床にぴったり張り付いたままロウのように溶けて、電話を掛けている様子が何故か手に取るように分かる。

 

そうこうしている内に、ハロハロラムネ味のことなぞわたしは忘れていたのだった。

 

 

 

 

 

定時上がりを、爆速でかける

ガソリンスタンドの薫りがもはや神域に達しているという意気がしたときに、ふと意味もなく秋の空を仰ぐ。と飛行機雲がとっても鋭いスコップのよう地面に突き刺さっているように、わたしは見た。でも冷静に考えればこの世は平べったくなくて奥行きがあるからあの一線は、飛行体はそんな急降下してる訳ではなくて、という思考が後からわたしをすっと追い越していった。

わたしは駅に向かうバスに飛び乗ろうと、ただひたすら走る。私が目指す一点、この停車場は、生きがいセンターという市営の施設に併設されており定時付近のこの時間帯にして生きがい帰りのご高齢人でごった返していると思いきや、三十前後のひとりの若人、恐らく近所のメーカー社員。それが何処かしらの虚空を凝視している。虚空、といってもそこまで一切の虚しさを抱え込んだ空間という訳でもない。その視線の先には丸眼鏡の坊主頭の野球青年。いわゆる高校球児。ワイシャツの襟が不自然にひしゃげて八分咲きの薔薇のようにさえみえる。

この男が球児を見つめてその結果を何を思おうか、虚空には何があったか?私には到底検討が付かないが、あの野球坊主頭に飛行機雲のスコップが突き刺さった格好になっている角度を眺めてこの男は享楽にふけっているかもわからんし、若干伸びてしまった坊主に夏の終わりを感じる風情、情緒を持て余していて生きがいセンターの入り口の前あたりでぶちまけてしまったのかもしれないし、そもそも、この野球少年なぞ元々眼中にないのかもしれん。ただ、この男が見つめていた虚空の先の大本命は、バス停に向かってメロスばりに爆走する針金、それを想起させるひとりの男かもしれない。

 

 

下書きスラム街

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DIYというのは要は日曜大工である日曜大工であるということ要は平日は大工で非らずということである。

察しのよい、方々であれば

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今読んで頂いたのは私が、遡ること約一ヶ月。私がブログの下書きとして保存した一部、というか丸々全文である。

タイトルは特に一切これといってない。Gr長とりあえずゴミ捨て場にプリンだけ正座させときました!みたいなブンショウ。何を察すれば良しか永久に、正直なところわかりません。恐らく書いてる途中に寝落ちしたか、きっと寝落ちたんでしょう。

と言い訳したいところなのですが…

これ、多分というかそうなんですがね、内容がホント、虚無に収束しちゃったんでしょうね。

ぼくの数ない美学の中の一つとして舞台袖を堂々淡々晒すというのはどうかと思うんですが

これはぼくの日記を記すスタイルの問題なので恐らくこういった下書きが山積していくのはもう回避のしようが無いのでしょう。

例として、今日は定時上がりやしカタリシスについて、というか自分の精神が浄化された経験そんときの所感か語りてぇとか思うじゃないスカ??それでもってどういった内容や構成を描くかをプロットしつつ書いていく

ぼくのこれまでの日記をパラパラ簡単におさらいしてみると、上のような作り方をしているのはせいぜい2、3割程度。

それ以外はというと、はじめの書き出しを、そのときの気分から導いて、そこからバトンを細かく繋げていくというスタイルを採用していることに私も最近になって気づきました。要は無計画。

私には特段世の中に強く訴えたい自分の中の普遍的なテーマとか、そういうのもないこともわかりました。目的は別にあるようです。

 

クロックスか非クロックスかの世界観

あれ、だれ。

現在、私は寮のワンルームの中央辺りからフラットな床の延長、玄関あたりをぼけっと寝起きの、恐らくはほとんど開いてない目でみつめていると思われる。

 

あれは靴では、ある。人とかではない。そう、靴だよ。靴だけどね、だけどじゃないんだけど、ありゃー用途としては上履き!建物の中で履くシューズで、見た目は黒赤。メーカーはナイキ。外見はクロックスの様だけど、まぁ、ね実際はクロックスよりもっと細身であの寸胴な感はないだが...クロックスはなんてかもっと真ん中あたり、あそこがパカパカするし...でもほぼほぼクロックスなんだけど、クロックスだね、あれは。あははは、