2022-1-2

あけおめとはよく言ったものである。

 

年賀状にいくらアケオメと書こうと、そこに自分の心的状況が何も含まれていないことに気づく。気付いたところでどうしようもないし、だからといってこうしようという気も大してないので、これといってどうでもいいのだが。

 

私のあけおめは相当に蝉の抜け殻てきだ。

言葉というツールは現実や空想を含む存在にたいして何かを示すし、同時に何かを示してしまうからいらんことも指し示してしまうので困ったものである。わたしの気の抜けたアケオメも何かを指定してしまっているのははほぼ間違いないであろう。

 

わがアケオメが示しているものは、ただ音である。

抜け殻を踏んだときのあの感触てきな音としての効果以外に私のアケオメを解体することは難しい。

ただ無理矢理解体するのであれば、アケオメは反射的でもある。何というか、人のアケオメに対して瞬時に飛び出す音のようなものかもしれない。アケオメというのを身体の反応というか、運動的に捉えると少しはアケオメに対する嫌気が緩和される気がして楽しくなるような気がするのであった。