肺炎療養1日目

おもちゃ。特に子供のおもちゃは小さな可愛いピアノとか愛おしいおままごとのセット、オタマだったり、べりべりマジックテープでくっつく茄子だったり、トマトだったり、木でできたコンロだったり。

これらのものは、実用品を元に作られた模造品であり、実際の使用上の機能は持たない。それでも子供たちは楽しい。歓喜し興奮して、手を叩きながらアタシがみた母親や父親をリプレイのように再現することにこの上ない喜びを覚える。

大人になると、何かを意識的に<真似る>ときのあの愉快な感覚を味わうことは少なくなる。それは、現に大人になる過程で、様々なことを経験してきて自分のモノにしてきたので、新たなことを習得することに貪欲ではなくて、寧ろそこそこお腹いっぱいの状態がデフォルトであるのは、そうだと思う。

少し話がそれるが、わたしが新入社員のときに寮の奴らとゴルフデビューをしようという話になった。大した想像力もなく暇を持て余した学生上がりの大人がやりそうなこと!と話を終わらせてもいいのだが...その中の友人に有金を全て叩いてクラブをすべて新調し、勿論バックも服装も靴も揃えてきた友人がいた。形から入るとはまさにこのことを言うのだろう。

彼は人生で1度とたりとも7番アイアンを握ったこともなければ、ティーショットを打ったこともなければパターを沈めたこともなかった。そもそもゴルフがここまで広大な土地を巡りながらプレーすることも理解していない。にもかかわらず、彼はその日のために一月の給料が蒸発するくらいの大枚を叩いたのだ。

でも彼の模倣の力は明らかに賞賛に値した。やや日焼けした肌に白い歯、白いキャップに有名メーカーの襟付きシャツに滑り止めの効いたシューズにピカピカのクラブがギラギラしながらバックの中で蠢いていた。何か歴戦の勇者というよりは、こなれ感を出すことでマウントを取ることを決してしない紳士、プロ中のプロを思わせる気品が感じられた。そんな彼の人生第一打、クラブの残像は歪んだ軌跡を、現代アートのような清々しさを空に描いた。

真似という遊びは、それそのものに中身を伴わないというのは何となく分かる。彼も多分ゴルフそのものをしているわけでないし(やっているのだけど)、娘も木のコンロで料理を作っているわけではない。

おもちゃ遊びや真似は、それそのものが手段であり同時に目的でもある。一定の目的に向かって進むわけではない。努力するわけでない。床屋のオブジェのように、ただ行為と目的とが付かず離れずのまま並んで螺旋を描く。いずれにしても、遊びは遊びそのものが目的で、手段や行為と目的が近しいポジションを取っている。

 

量化。質と対立する意味での量化は、行為と目的の両者を遠ざけるものだ。量とは平穏でささやかな生活に水をさす年貢取立て人みたいなものである。行為と目的を離散させるもの、引き裂くもの。量は人間に感情を作用する。

ある者にとってそれは、聳り立つ一枚の壁、登るべき対象としてうつるかもしれない、使命、他の者より速く登ることを願う。ある者にとっては、絶望を与える遠過ぎる目標かもしれないし、ある者にとってはそれはそもそも壁ですらなく、遠い南アルプスのように、ぼんやり大きなオブジェクトのように見えるかもしれない。

 

娘はまだ量を体感していない。遠さも感じないし近さもない。速度もきっと何のことだかわからないし、時間も感じないのだろう。

時間というものは、量的なものの代表選手だとこれまで思っていた。勝手に量的なものは人口的なイメージが強いと感じていたのだが、時間は少なくとも人間がコントロールするものではない訳で、時間に対する人口物的イメージはすぐに払拭されるべしだときづいた。

逆に、時間は質なのでは?と思うことがある。確かに文字盤を見れば時間そのものは量的に扱われているが、それは便宜的には扱われているだけで、時間は経験の束からから質的な感覚、近さ、遠さ、速度が創り出した幻想と、それらの結果がつくりだしたもの、と直感してみる。

もしそうならば、あの量的なもの足掛かりに、ヒントにして、時間という力を感じうるというのか?私達を争いに駆り立てる量的なあの力に、時間を理解する機構が眠るのだとすれば、量的なものが時間と同じように、他の質的なものにも作用しているならば、最初から質と量は対立してないのではないか?