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購買で昼に買った塩キャラメルクラッカーがやたらうまい。

自分が食べて美味しいと感じたものに関して、人と共有したという欲求があるが、共有した相手に感想を強要するような感じもして(それがその相手の好みでなかった場合は尚更)、なんだか気が引けてしまうということが、なくもない。

 

強要するという表現は必ずしも適切ではないかもしれないが、少なくとも相手に何かしらアクションを取らせるというニュアンスを、常に含むとは言わないいものの、それが全く無いといったら嘘になるのではないか。

 

そういう意味だけで単純に捉えると、動画配信などで商品紹介をする人たちはかなり理にかなっているように思うのは、わたしだけだろうか。視聴者は配信者との一対一の双方向的な関係が必ず生じる訳ではない。視聴者はその動画を観た後、なんのコメントもアクションもせずに別の動画に、ただただ自動再生でながれていく光の淡い移ろいを、ぼんやり眺めていればよいのだ。

現代の私たちは、動画を見ることによって楽に情報を手に入れることができる。もちろん動画サービスがそこまで普及するまでにインターネットが発達したわけで、その時代から情報が我々の身近になったのはそうだろう。

ただ、動画は相手との双方向の関係を無視しつつも緩く繋がる不思議な感覚をつねに伴っている。相手に感想を強要してしまうように自分が勝手に抱くような否定的な想像力はそこにはないのに関わらず、人と一緒にいるような実感が常にわたしの周りにたゆっている、そういう感覚がいつもあるのだ。

リスクを犯さずして、楽に何かを達成することを否定したいという気持ちは、わたしにはそうそうない。楽できて楽しいということは、それこそ、本当に技術の賜物でしかない。技術の勝利だ。

だから、技術そのものが、我々を常に新しいステージに連れて行ってくれている、という風に捉え直すこともできる。でも常にこれまでのコミュニケーションから離脱することの怖さのようのようなものが付き纏うのもそれは真である。