ファミチキ

夕刻。保育園に車でお迎えに行く途中にふと腹が減ったなと思いファミマに寄った。ファミマに入る前から、だいたいファミチキを食べようと心に決めているのもそうで、まぁ例の如くファミチキをオーダーする訳であるが、わたしが注文したファミチキファミチキであるものの、普段のそれとは違った。ちょっと紅い。

ハバネロ味。あの世界でジョロキアの次の次の次くらいだかに辛いと忌み親しまれるスパイシー界の貴公子であるが、わたしのこのまわりくどいハバネロに対する形容も、正直なところどうでもよいのだ。

ここで声高に主張しておきたいのは、私が食べたものはハバネロ味なぞではなく、X味なのである。Xには普通以外のすべてが代入可能で、おおむね何でもよい。

更にいえば、私が食べたものはf(X)である。食べたものというより、経験したこととと申した方がしっくりくるかもしれない。Xには普通以外の任意のものがなんでも入る。なんでもばっちこいだ。f(X)自体は<いつもとちょっと違うズレをたのしむ心>のような出力で、だいたいXによらず同じような出力と相場が決まっている。今日のXはハバネロだったが、それがほうれん草でも椎茸でも、経験するf(X)としてはさして大差がない。(私の場合)

こういう状態を何と言えばよいか....そう、コンテンツそのものに好奇心が向かっていないというか、ファミチキの話であれば、ハバネロ味??なにそれ食べたい!というようなハバネロ味に対して積極的な印象を持つというか、そういうことはないのだ。あくまでもハバネロはf(X)のなんでもよいXであって、期間限定的なことを示すアイコンのような存在として、ただそこにいるだけである。だからXを食べてもXの味がするのではなく、f(X)の味がするだけで、一般化されてしまった塊を口にしており、個別でプライベートな体験が欠如している感覚がある。

そういう感覚は、例えば生活をつまらないものにしてしまうように思う。生きている実感を減らすだろう。毎日毎日同じようなことの繰り返し...というような感覚が強くあるのは、ものの解像度が低いという話ではなくて、f(X)の成分を強く感覚しすぎてしまっているから、f(X)の多用が原因ではないか。f(X)はある種、パターンを呼び込みやすい。f(X)は毎回ほとんど変わらない経験を与えるし、かつ、Xが目に入るとすぐにf(X)が現れるというこの一連の流れが自動化されてすぐさまパターン化され癖になる。また生活のぜんぜん関係ない違った場面であってもf(X)がアナロジーのように扱われることもあり、このようなf(X)への置き換えのようなものが一斉に広がると、全身に毒が回るように、生活で得られる目新しさのようなものは次第に減っていき、「現実(変数)によらないアリキタリナ出力を返すだけの退屈な装置」で自分が満たされていってしまう。これは危険である。

だから、私が食べたものはハバネロ味であったということについて、ある程度の必然性のようなものがほしいと思いつつも、誰でもよかった期間限定をただ食べたかった、と供述する私は生活の面白みを幾度となく殺害してきたのか。