夏は素麺.com

素 麺 とかいて、soumenと読む。

そして、ここで私はあえて辞書は引かない。

 

素数は数の「素」(もと)であるし、素材は材の「素」であるし?、すくなくとも素麺は麺の素ではない。ラーメンは素麺から製造されないし、うどんも素麺をドロドロに溶かして製麺するということも可笑しなはなしであろう。

要するに、素麺は麺とカテゴライズされるものの源流のような位置に腰を下ろしてはいない。素麺の素はマテリアルのような意味を含んでいない。素麺は麺界の一段メタ的な、超越的な存在ではなく、むしろ麺の種類のひとつ、として数えられる。(冷静になると、おそらく、素面(しらふ)や素人と同じ素の用法であると思われる)

だから、我々は素麺を如何にもその名前からして崇高で近寄りがたい一匹狼のように扱うのは間違った素麺とのコミュニケーションと言わざるを得ない。この素麺とのディスコミュニケーションが及ぼす人生への影響と言えば、非常に絶大なものである。一歩間違えば、結婚相手よりも人生に影響する可能性があることを、わたしはそれを、声高にして語りたいのだ。

 

素麺コンサルタントへの道のりが非常に厳しいことは、わたしには理解できている。ここで、突然わたしの急ハンドルに置いて行かれてしまった読者の方には、説明せねばならない。が、兎にも角にも、わたしは素麺コンサルタントとして使命感を抱きつつもこの道へと進もうとしているは確かであるのだが、ひとつだけ問題があることが分かっている。

これは素麺コンサルタントに限った話しではないのだが、何か生業が存在しているからには前提として、その生業が欲されているという社会的な状態が必要である。所謂ところの、需要という奴である。

面倒なことに、わたしの天職がエンジニアでなく素麺コンサルタントであるに関わらず、素麺で困っている人間が居ないというのが現状なのである。よって、私が市政にでもひょいひょい出馬して何食わぬ顔をして「素麺との人間とのディスコミュニケーションを解消する政策」をマニフェストとして掲げても、ただの束の間の間違いで終わるだけである。

 

わたしはライフハックというような言い方が必ずしも好きではないのだが、素麺は多忙な家庭(子持ち共働き多残業など)のリーサルウェポンになるとここに断言せねばならない。わたしは事実、素麺のこの手軽で、簡単で、同時に奥深さも持ってしまった反則食材、この深淵なるダークマターに惹かれているのである。「おお、、お前はただ、素麺に支配され洗脳されているだけだよ」と助言を受けても、わたしははいと真顔で頷くだけだろう。洗脳?結構、わたしは素麺を愛しているのだから....

 

というように、わたしは日陰ものの素麺loverであるのだけれど、といいつつも、今日の昼はその素麺がきっかけで半ば心臓が止まりかけるという事態が起こった。

いつものように鍋にたっぷりと湯を沸かして、いざこれから茹でようと思った。素麺の標準茹で時間は1分半で非常に短く優秀である。博多豚骨バリカタのカップ麺の一段上をゆく有能さで今日のわたしはその有能さ故に冷や汗をかく羽目になった。

わたしは3束茹でようとした。妻と娘と、わたしの3人分にはちょうど良いと踏んだ。束ねてある紙のラベルをぺろりと剥がし灼熱の業火へと細い糸の束を放った。そして、アレクサさんに1分半カウントを命じた。

ここまでは良かった。ここまでは、全て流れるように、わたしの手際に問題はなかった。なんなら、茗荷や紫蘇やその他、付け合わせのことで考えを巡らせているほどの余裕すらあったのだ。次の2束目のラベルにわたしの人差し指が触れた瞬間、緊急地震速報のような強いシグナルが私の身体全身を駆け巡った。脳内に巨大電流が流れショートしたように一瞬思考が停止した。

第2束目のラベルが剥がれないのである。由々しき事態を超えた由々しき事態が起こったときに、人間は何か少し笑顔が溢れる。ははは。第一陣の束はこの瞬間も鍋の業火に煮えられている。束の投入に時間差が生じれば、不均一な食感を生み出すに違いないし、茹で時間が1分半と優秀すぎる素麺に限っては1秒単位で投入時刻に差が出ることが命取りになる事は、最早いちいち確認するまでもないことである。

さて、いや、次の回に回せばいいか...ふと私の心はそういう風に自分を落ち着かせるのだった。今回は1束目だけを茹でて、もう一度茹で直せばいいではないか....

恐らく、2束目の素麺を左手に持ちながら上記のようなことを考えた時点で既に5秒ほど時が経過していたに違いはない。しかもこの間に後悔の念まで押し寄せる。ああなんで3束分のラベルを、外しておいて一気に鍋に投入しなかったのだろう...普段の自分だったらそうしたであろうに何故....。そして更に3秒が追加され8秒ほどの時が流れたのち、いや、ここで2束目を投入しないのは、人間として負けているのでは?という己の自尊心にかけた言葉が弱々しくも、じんわりと芯を持って現れた。イタリア料理はムラの美学と独自の思想を打ち出す料理人の言葉が私の脳裏を涼しげな夜風のようにかすめていった。素麺はイタリア料理ではないけれど....素麺にムラがあってもいいのではないか....相変わらず2束目のラベルが剥がれないどころか、二枚爪のように表面の紙だけやけに綺麗に剥がれている。それでも何とか幾らか素麺を折りながらも、ラベルを剥がし鍋に投入することが叶った。内心ほっとしたが、それでも1束目から20秒弱ほどが経過しており、均一な素麺を望もうなら致命的と言わざるを得ない。が、ムラの美学を許容したわたしはまぁ仕方なしと大目に見る事にしたが、その時のわたしは3束目のラベルが文字通りのラスボスであることを知る由もなかったのである。

 

何となく、書き終えて、今日はまさに素麺のような文章になった。飽きずにここまで、たどり着ける人間がいるのだろうか?いるのであれば、わたしのことがよっぽど好きなのであろうか。