そうだ、と。コタツという塹壕で私は思う。
「〜してもよい」という、一般的の対岸の道を提案されることに私は疲れたのだと。
それは当初は救いであったはずなのに、いつのまにかにその救いは鬱陶しさや脅迫のようなものに変貌していた。
そんな感情をいだきつつも私は色んなことを許された。
許されたやいなや掌を返したかのようにそれ乗り移ったし、乗り移る前のものに対しては未練のようなものは何ひとつなかった。
わたしは解禁された途端に、まるでそれが最良の策だというような、画期的なものに見えた。
ただ現実、「〜してもよい」の救済のフレームワークを悪用、濫用する大人が後をたたないと思う。そうすると、本来的な意味での救済を見つけることがしにくくなる。
この疲労はネット社会の情報量がおそらく寄与していることだろうし、本屋にいったらいったで同じように救済の囁きが洪水のようにフロア一帯を満たしている。
私は本屋が嫌いになりつつあった。
こう書くとわたしは、自己啓発本をただ非難する活動家と揶揄されなくもないが、自己啓発本そのものは悪だとは考えていない。むしろー。
ここでわたし自身がやろうとしていたことは、まさにこの世に蔓延する救済の悪しき文化そのものに他ならない。
自分が特定の思想を持っていないことを示す為に、あえて対岸に手を伸ばし肯定すること。
その反力で己の立場を大袈裟に表明してみせるような、そんなことが人間よくやってしまう、やることだと思う。
自分の立場を誤認されないように、外堀を埋めることに余念がないのは、深層心理で疑われたくないという思いが強すぎるのだろう。
何に対して?自分が嫌悪する対象として、そう疑われたくないのである。
そういう意味で、類は友を呼ぶというのは、この蔓延する救済の構文をもってしても成立しないだろうか?我々は、自分の嫌悪の対象を共有することによって、仲間をつくることもある。会社の飲み会は楽しいが、現にそういうことをやっている。
人間の、外部に共通の敵を作ると協調するという性質。
人間が協調するための手段として、古来からこのレトリックは存在したのだろうか。