娘の誕生日 2歳

おとーーしゃんっ!おかさぁん!あっちーーあっちー!!!!

今日は、ほのちゃん何歳なんだっけ?

にー!、にさい!

娘が誇らしげにわたしたちそう言ったのは午前8:00前後。

その時から既に、わたしの胃腸から細い隙間風のような音が鳴っていた。

知ってはいたが、気づかない振り。我が子の成長に満足しながら、欠けたマグカップを口元にはこぶ。

アッー。

幸せの吐息が大気に解放される。この幸せという言葉が、すでに自分の持っている幸せには追従していない。なぜであろうか?それはわたしが真の、本物の幸せに辿り着いたからではない。

むしろ、真の幸せというものがこの世にありふれたものであり、何処にでもあって、何処にもなく、それが自分の目的思考や焦りとは無関係であること。娘を見ているとそういう気分にさせてくれた。

と、陳腐な幸福論を嘯くも、わたしの哀れな胃腸は娘の誕生日にかかわらず何食わぬ顔で火を吹きながら、突然着火。たけり燃え盛り、笑顔の娘、可哀想な父親は布団の中に横になった。

アッー。

わたしの肛門はなにか、締まりの悪い巾着袋のようだ。37.8,38.5。発熱はそんなでもないがコロナ罹患よりもきつい。倦怠という二文字が頭の中を右往左往、倦怠、倦怠、ケンタッキー。無理にケンタッキーに繋げて鬱蒼とした森の中から交通量のある明るみに出たが、3秒後、北米での現行プロジェクトが頭をよぎりそのまま乱暴なタンクローリーの下敷きとなった。

この全身の気怠さを。

天真爛漫なほのちゃんの声がリビングから締め切った寝室に常時漏れてくるが、打ち負かすことができない。

我が娘よ、わたしを胃腸炎の苦しみから救ってくれないか!お前は2歳なのだろう!!2歳であれば。

わたしはなんとなくXをみた。

スマホ依存である。

港区在住ラウンジ嬢が麻布の寿司屋で大将をキレさせて、その様子をスマホで撮影して拡散したという内容だった。ネット上では、総じて寿司屋の大将は同情的な眼差しを向けられており、snsに自分が発端で大将から怒りを引き出したのに、ここまで被害者ヅラした投稿をできるなという意見が多数を占めているようだった。

携帯を脇に置いて目をつむった。デジタルデトックス、デジタルデトックス。

デジタルデトックスなるものは、有害な情報を仕入れることに疲れた人たちが、何故だか仕入れてしまういらぬ情報と一定の距離を置く為の方便であるように。

あーわたしも、この倦怠と一定の距離を取りたいにもほどがあるが、自己デトックスなぞ幽体離脱的な芸当はわたしにはできない。

でも自分と一定の距離をとるというのは、よくよく考えると魂のようなものがぽわっも揮発していくようなもではないかもしれない。それは、小説のようなものを読むこと、自分を超えた存在を体験して知覚すること、かもしれない。

そして、書くというこのわたしのライフワークは、この自分との距離を確認することに意義があることに気づいた。

人とひととの距離、自分との距離、それに絶対はないことが世の中の恐ろしさの一つだと思う。だから間違いを犯す。娘はトンデモない速度で成長している。速攻2歳になった。

常に同じ距離感はあり得ないはずであるし、それを日々丁寧に確認し、観察することが肝要であろう。がんばれ私。