結婚観

友達が婚活で、色々と悩んでいるようだった。

私はただ結婚したという経歴を持っているがそれ以上のものは持っていない。モテる訳でもないし話が面白いわけでも女好きな訳でもないし結婚願望が強かった訳でもない。

ほれほれ、まともなアドバイスなどできようがない。

そうすると、わたしはただ、成り行き任せで何となく結婚した人間なのか?とおのれに問うと、それは明らかにYESなのでした。結婚なにそれと言う感じに近い。

やばティー的には、ノリで結婚したというやつではある。

結婚といえば、トドのつまりは複数の人間が一箇所に集うことにあると、わたしの辞書には書いてある。

複数のというのは家族のニュアンスを指している。

人間が人間と一緒にいることが、人間らしさであるならば、結婚はその人間らしさに大いに向かう方向ではあると思う。かといって、ひとりでいることが人間らしさに逆行する動きであるかは断言できない。そもそも、そこまでして人間らしさに拘る必要があるかも、正直なところ誰にもわからない。

そもそも家族を作ることが人間らしさの獲得という目的を持ったものである、という発想は捨てた方が懸命かもしれない。

では家族をつくる私たちのモチベーションは何なのか、そう言う時にわたしがいつも思う事は、そんなものは存在しないのではないかということだ。

家族は、モチベーションや目的とはすこし違った層にいるような気がするのだ。

 

偶然。ところで偶然とは、ある意味では運任せの他人任せの極みである。主体性のカケラもないようなことばだが、だからといって偶然を軽んじてはならぬ。

わたしは娘のステータス値を選んでいない。わたしは顔のパーツの配置だとか、こういう仕草をよくするとかそういう一切を選んでいない。にも関わらず、娘の存在は大きなものだ。

目的を持って選択することと、自分のなかでのその存在のおおきさには、あまり関係がないように思う。だから主体性みたいなものを歳を追うごとに信用しなくなった。自分で選んだこと、わたしは自分の選択にいつも酔いしれてしまう。これは何故だろう。自分というものが自分のする選択に宿っているように、そう感じることもない訳ではない。

選択や主体性は自立のようなもの、かっこいい大人を想起させる。偶然や運に身を任せること、力を抜いてなるべく受け身になること、ぼけっと人の話に耳を傾けること、テキトーにひとに流されること、そういう選択の先延ばしが自分の結婚観でもあった。

自分は結婚するのはまだ早い、と思う時期も結構あったのだが、それは、まだ早いというような己の成熟の話しは自己欺瞞で、まだしたくないが本音であって、結婚をする瞬間まで実はそれくらいの先延ばしっぷりを発揮していたように思う。

また、わたしが結婚をそれなりに渋っていたのが、結婚はある意味で、外乱の連続でしかないという側面を認識していたから。全然リオのカーニバルが好きじゃないのに、毎日そこに放り込まれるのがおそらく結婚で、最初はイヤイヤながらも何とか身振り手振りやって(流されて)、で不思議なことに毎日踊ってると、自分も変な格好して満更じゃないような顔をして踊っているというのも、また結婚の一側面であることをわたしは認めなければならない。

結婚は間違いなく、人生(人間)を変えると思う。