みにまりすとへの偏見

布団の中に入ってとりあえず目を瞑ると、やっぱりあの、あの日の、夕方、のっぺりしたあの奇妙で病的な部屋を思い出さなければならなかった。殺風景という言葉はありきたりでありながらも、最も相応しいように感じる。私の寝室はどうしようもない暗闇のはずなのに、目の裏にまで溢れんばかりのあの白光が浸透してくるようである。

その白光りと同伴して、恐らく、片足で、窓際に立つ武田の、そりゃ武田しかありえまいか。何故だか顔のあたりをマジックでやたらめったらに塗り付けてあるせいで、確実なことは言えないが。確実な事を言いたくないとき、自分は大層、誠実な人間だと感じて何となく気分がよくなる。脳みそが勝手に武田の顔に、かのような処理を、逆光の如き処理を施したのか、とそう思うと、中々にそこまでしても私の脳みそは武田の存在を消去して、睡眠にありつきたいようである。

寒天を四角い型でくり貫いたようなその八畳間は、やけに西陽が眩しく、なかなかに鬱陶しい。が、私は鬱陶しいと喉元まで登った感情を武田には悟られまいと、必死だった。眩しいのもそのはずで、そもそもこの箱の中には、遮るものが、有るはずのものが、一向に、あらま、困ったわんと、何処ぞ見当たらんのである。遮るもの、というのは何も窓際のものだけではない。テレビ、机、椅子。仮に背丈のおおきな観葉植物でもあろうものなら、んなものは、武田からしてみれば、ぎゃははわははと相当に笑い散らして、両手で植木鉢の下辺りをひょいと持ち上げて、ひっくり返しそうになりながらも引き戸を片手で勢いよく開けてベランダからあばよをするはずである。

武田は自らを、みにまりすと、と説明した。武田のここのところの口癖は、とういつ感とか、ちょうわ、とか、なんというか端整な言葉たちを庭に招き入れた。大学に入ってから三年が経つが、武田とは学科が同じで、入学当初からの唯一、友人と呼べる友人だった。授業も常に二人で最前列から三列目の真ん中をキープし、当たり前のように壇上の教授の言葉に耳を傾け、それなりのメモをノートに書き付けた。昼飯も神楽坂のランチというランチは武田、奴と供に征服した。あの、ボウフラのように湧き出る数多のインドカレー屋を含めて、神楽坂ランチを全制覇できたのは、紛れもなく寡黙と勤勉さが心地良く共存する彼の、あのしなやかなる意思によるものに他ならなかった。

わたしは、逆光の最中、あの部屋で彼が語ったこと、熱を帯び、取り憑かれたように空白を語るかれを、正直、殆ど覚えていない。ただ、彼の言葉に対して、ひたすらに同意を繰り返した。彼を調子付ける言葉は、わたしの何処から湧き出て来るか。ただ頷くことを止めることが、どうしても叶わない。首の辺りが緩いのかと、頭が異様に重いのかと、あの遠くの西陽が眩しくていつもの偏頭痛がするかと、まぁ、わからぬが、この私の首が緩いのが終わったときは、それが終わってしまったときは、かれとの明日に、もう陽が差すことはないと思ったのかもしれない。

 

 

 

 

反省なし

今朝、教授から大学院の卒業単位が足りていない旨の連絡を受けた。結論から言うと私は救われたのか何だかよく分からんが、救われてしまったようである。

二年前の卒論シーズンのときも、これと全く殆ど変わらないことを経験した。それを私は何となく思い出した。怠惰とか不誠実とか、自業自得だとかそういうものは、痛い経験に逢ったり、それこそ、単なるそのトラウマに似たものを皮切りに次第に綻び薄れていき、やがて消えゆくものだと、その当時の私は考えた、と思う。

確かに、今でもそれはほとんど正しいと私は思う。怠惰や欲望はある程度、意識的に、合理的な物事の運びを考えれば、その通りになるのである。ただ、今回の件で分かったのは、多分これから先も、私はこうやって私自身の首を絞めながら、生きてゆくのだろうと、そう思うし、きっとそうなのだろうと、予感がする。

恐らく、私をそうたらしめるものは、欲望とかそういう大きなうねりの中ではなく、それはそれはささやかながらも絡みつき離れない、さぞ厄介な古の原理、があるのだと思うし、それはもうどいてもらうのは、諦めるしかあるまい。

修士論文を書かなければならないのにこんな事をしている場合ではない

この問題をわかるもの

と黒板を背にその若い女教師はたしか言った。冒頭いきなり、些細なことを言えば、この定型句は恐らく少し違っていて、これは舐められることを怖れた教師が、初老の威厳を急いで被ったのち、誤って発射することばを連想させるからである。でもきっと当時の私は知らないが、現在の私もそんなことは大してどうでもいいことだと考えているし、これから先もどちらにせよ、大して変わらずにまったくどうでもいいことだと考えるであろう、というか寧ろ、考えなければならない、と思う。

とにかく話を戻すと、私はこの教師の高圧的なあの鬱陶しい視線を潜り抜ける必要が、それはかなりあった。というのも、暇な貴族の独り言を現代語に変換するという行為を、日本社会が目の前の女教師を通じて、いわば操り、要求してくるわけで、しかもこの日記をかいた引眉の女の気持ちが全く分からないことが周囲に知れ渡ればそれこそ、大変な赤っ恥かき、恐らくは吊るし上げにされて元の穏やかなあの青春には戻ることは愚か、例のカースト上位から引眉を強要されるため毎朝6時くらいに母のメイクポーチをかき漁って短く持ちにくい眉ペンで上からぎゅぎゅと塗りつぶして家の人間が起きてくるまでにひっそりと何事も無かったように誰も起こさぬように溢れんばかりのグラノーラを強く右手に握りしめて半分くらい口に放り咀嚼音さえにも気を遣いながらドアノブに触れエレベータに乗り込み駅まで何となく早足で移動しベタベタ砂糖が付いた手を舐めながら制服に擦り付けて水分を取っ払い定期をリュックサックのように背負っている手持ちバックから定期を取り出して改札をくぐり抜けていくのである。帰りというのは近くの公園で冬のそれはそれは冷たい水、蛇口をひねって隅田川の炊き出しの列に想いを馳せながら次世代平安風オシャレメイクをそっくり落として赤く霜焼けのような笑顔で夕刻、玄関に足を踏み入れなきゃならんわけである。

私は教室の後ろの窓側にいた。勿論、例の如く背後には掃除用具のどっさり詰まった縦長のロッカーがあった。埃のあのきつい匂いはそこまでないが、昼下がりに関わらずカーテンがそれは全開で陽の光がまともに机にあたって眩しく、私は常に目を半分閉じたか開けたかの寝起きのマグロのような状態で着席していた。これはあの女教師の標的になるにはかなり十分であったが、突然大体どうでもよくなって、お日様を恨む気持ちも私の中には特に芽生えずに、寧ろなんだか幸福につつまれたような気になって何故かニッコリと笑顔を作ってそれをあの女教師に向けてやった。

私の他に、この刹那、女教師に顔を向けているもう一つの存在を私は確認していた。教室の私の真逆、廊下側の前席にいた彼女は真剣な鋭い眼差しを黒板の方に向けている。私は彼女のことを知っていた。いや、同じクラスで一年以上過ごした人間に使う言葉では無いかもしないことは重々承知であるが、これ以外に使うことばがさして無いのである。私が彼女に対して知り得る情報の唯一は、彼女が茶道部に所属しているという事実とある一つの光景である。記憶は学園祭、プラスチックの容器に並々と入った緑の汁だくを箸でかき混ぜて抹茶を溶かし、片手でテンポ良く、かなりの高速で長机に並べ、量産する例の姿であった。形式的な美を所望する一行に属しながら、それとは程遠い彼女の所作に、私は何か感動を覚えた程だった。私は何となく彼女の方を見て、きっと彼女は自信に満ち溢れていて、この女教師を満足させるに至るだろうと、漠然と思った。というより、そう思いたかった。

 

彼女がいなければ、恐らくは、だいたいどうでもよくなって、のほほんと日向ぼっこを始めていたあの瞬間の私は、大袈裟に言うと、救われなかったであろう。私はそれなりのリアルな恐怖がジリジリと迫ってくると、どうでもいい下らない妄想を膨らませる癖があった。それは、その恐怖を小さくしたり克服しようと努力するのではなく、逆に自らでせっせと膨らませて、その恐怖の風船たるやをぶち割ってしまうのである。パンと弾け飛んでしまえば、不思議なもので、大体どうでもよくなってしまうのである。

彼女が見つめていたのは私と違って女教師なぞではなく、黒板の上に取り付けられた、ひとつの時計だった。無論私も薄々感づいていたが、恐らくは彼女は答えなぞ、全く用意をしてはいなかったと断言できる。彼女は窓から見えるグラウンドの横にある駐屯基地での自衛隊の訓練開始の時刻を恐らく、知っていただろうし、あの女教師がヘリの風切り音が大の嫌いで、授業を中断してでも外を眺めることによって、あの不快感を皆に表明するあの癖を、把握していたのであろう。

 

 

 

 

いみがわからないこと

足の小指にぶつかるのはいつも空の2Lペットボトルである。いやきっとそんなことは無いんだろうがね。帰宅後の暗黒、凍てつくワンルームの床にカランコロンと大層間抜けな音が響くもので、そのときにアッと、小指をぶつけてしまったなぁ、と少しばかり遅くれてから、たしか、そう思ったのである。

でも、おかしなもので、そんな空虚なものを蹴っ飛ばしたところで、さほど、その例の小指に激痛が生じる訳でもなくて。よってわたしは小指をペットボトルにぶつけてしまってお茶目だかチャーミングだか間抜けだとかと、一々自分を評する機会すら与えられん訳であるから、そもそもこの文章をしたためているというのも中々、どうして変な話である。

例のペットボトルを蹴っ飛ばした晩の、翌朝は、仙台は冬晴れの中に、牡丹雪が舞っているような一日だった。わたしはきっと人型のシルエットがぼんやりしてよく分からない位に着込んだ。それこそ起毛の効いたエセ関西人風ヒートテックにシャツに安っぽい人口繊維のセーターにジャージにダウンと。自転車にまたがってアパート前の通りにでると、坂道をしゅっしゅと早まきでくだっていく。そのときの、わたしの神経の大多数は顔面というか、口元から鼻に至るまではマフラーで辛うじて塞がれているから、目元付近に集中する。足の小指の出番なぞ、ここでは到底ないのに、それにも関わらず、過ぎ行く景色に一向にそぐわないスピードでゆっくりと例の小指とペットボトルの情景、氷のような焦げ茶のフローリング、暗闇に灯る底抜けに明るいモニタ、それらが脳内に立ち上がり、反芻する。

これに似たようなことは、何となく、わたしの場合、日常的に起こる。どうでも良く処理されてしまうようなこと、推理小説のように意図的に隠されて、かえって目立ってしまうそんな素振りもなく、後から解を囁かれても全く腑に落ちないような、でたらめで、トンチンカンな光景、つまんねぇという感想を持つ暇さえ許されぬ、無味乾燥な画像、どうにもそれがフラッシュバックされる。

そういうとき、わたしはその人だかケモノだか知らぬ放浪者を、NHKの集金だとかお尋ね者みたく、軽くあしらって表に返してしまう。わたしには仕事があるんやと、修論の結果と原理に整合性が合ってないことに気付いてね、アンタとそれどころじゃあないやよ、とね。

ただね、わたしは凄まじい権利を、たのしみを持っている事に気付いてしまったような気がする。その例の放浪者に、名無しのxさんに名前を冠することができるわけで、ペットボトルと小指と冷気と暗闇にどんな意味があるかは知らんが。あれの類は、追われ拘束される日常にそっと差し出された、どんな意味にも変容する、一種のジョーカーなのかもしれぬ。

 

 

 

 

 

みえないものに捻じ曲げられること

わたしくしのおしりあいは会話のアタマに

いや、全然関係ないんだけどさぁ

というフレーズを必ずや持ち込む訳で、それは彼の癖というほぼ無意識から来るものだと思っていたのだけれど、最近というのも、実はそれがかなり意識的に、狙い定めてアタマに弾丸を走らしていらっしゃるということが判明致しましたので、全然、どうでもええのですが、ここにご報告させていただきたく思います。

関係がないという言葉を使う為には、当然、何かを前提とせねばらず、その彼が前提としていたものは、そこがある一定の意味を持っている社会的空間であるというものである。そしてその社会的空間とやらは、ここで大学の研究室という場で高尚な学術的議論がなされるべきで、日進月歩の科学技術を生み出すためにゃサビ残とかそんな言葉、無限遠方勿論無縁、研究室は不夜城と化し固有結界を形成する助教授が今週殆ど、全くもって可愛い娘さんが待つ家に帰った形跡が見られなければ、わたしの友人が話したがっているbig4のアンディーマレーが全豪をオープンを最後に引退するというお知らせは、そんなものは全然関係ないだけどさぁという、前置きが必要なのかもしれない。と思わせられてしまうのが中々に恐ろしく、また恐ろしい

日曜日のあちらやこちら

いつになく現実からただ逃れたいという気になっている。今のわたしは恐らく、藁にもすがる何たらで、ひびわれたこの賢くスマートで優秀なフォンに文字を書きつけている、血筋が浮き上がり渇ききった亡者であろう。

現実とは何であらうか。この目にみえる毛布とかまくらカバーとかお湯を沸かしてコーヒーを飲むとか、文字を書き付けるだとか、そういう類のことは現実なものだろうか。いや、でもわたしは今ね、何ものから逃れたくてそれらにすがっているのだから、枕カバーもこの毛羽立だちまって全盛期のみる影もない毛布も、彼方側の世界の住人であって。ただわたしにとってコタツは侮れぬ存在である。コタツに脚を突っ込むや、あの忌まわしき研究室のPC排熱の手、あの感触がしたかと思うと、一気に引きづり込まれるのである。奴は侮れぬ、困った。

瞼をそっと閉じる、そして、

何気なく、目の前の光景に申し訳なくなって、なんとなく居たたまれなくなって

彼女は両手を広げた。地鳴り、頬を伝う風、それは何故かこの緊迫した状況に見合わない爽やかな風、その刹那、彼女は、主人公たるやは、例のごとく、のっぺりした大地のその上空、宙を舞った。紛れもなく、彼女がポップコーンのように弾け飛んだのは、この無数の眼を持つ、王蟲様の大行進の最中にいたからである。ちなみに、彼女の名は、ナウシカという。

このとき、王蟲らを前にした彼女は(物語を私自身があまり覚えていなのだが)、何かしらの覚悟を持っていたのだろう。彼女の広げた両腕の意味するところは、王蟲らの人間に向けた怒り、それを受け止めるという意思も、勿論、あっただろうが。

ところで、私は先日、この師走の何たるゴタゴタやかましい時期に、オーストラリアに家族旅行に行ってきた。次、次回、機会があるならどこに行っちゃう?肉まんを頬張りながらぼんやり旅行ブログを漁っている私、あれま、こんな写真がしょっちゅう目に飛び込んでくる訳である。それは一言。ユウダイなケシキをバックにして両腕を広げる人々。そして、例にもれず、私も、私の家族も、ユーカリの薄い緑と無限の空の下、同じように両腕を広げていた。でもそこには、ジャパニーズがカメラを前にすると決まって取るピースサインに見てとれるような、湾曲的で不自然な強制力を感知することはできなかった。

私は、何か、この雄大な揺り籠に申し訳なくて、両腕を広げたことをまだ覚えていた。

 

アリスとお呼び

どうやらぼくは、不思議の国に迷い込んでしまったらしい。今まさにこの瞬間、トンでもない勢いで時間が流れるというか、飛び出す感覚、目の前のディスプレイがふにゃふにゃの海草みたく頼りないし、キーボードの打鍵音も町工場の騒音紛いの加工音とモスキート音を貼り付けたように感じるし、外を走る車のエンジン音もそこそこに馬鹿げてる。あのプリウスですら、今のわたくし、アリス様、の地獄耳からは逃れることは到底不可能なことと、思う。

この今の、現在進行形でぼくに降りかかっている一連の症状らは、つい最近ググってたまたま、偶然知ったのだけれど「不思議のアリス症候群」というものらしい。ネット上をうろうろとしていると、そりゃ、結構な人がこの例の、アリス症候群であることがわかった。そして、そうこうしているうちに、ネットサーフィンしている僕は、アリスになったのだ。

アリスになった僕は、不思議な国に入り込んだ不安とか非日常とか好奇心とかそんなエキサイティングな心境ではなく、一種の、ただの安心を手にしていた。それは、幼少期から悩まされていた正体不明の、時効間際の、売れ残り廃棄寸前の知覚異常に「不思議の国のアリス」というラベルを張っていただき、しかも一生に一度くらいは大多数の人間が経験することを知ったからである。

言葉というものの威力を、心底、感じずにはいられない。よく分からないもの達を無理やり束ねあげて、キツくぎゅっと縛って、しかもそこに近寄ってきた人たちも一緒に巻き込み、そして拘束してしまう。そして拘束されながらも、安堵しているのは異様に不気味な感じガスる。世の人間は、やたら繋がりたいらしい。

御機嫌よう。今日はずっと座ってて脚がぴりぴり、痺れてます

 

どっかの山奥にでも車を走らせて、乾いた木々を集めて火をくべて椎茸の傘を網に乗せて上からちょちょいと醤油を垂らす訳です。秋じゃないすか、それって?なんでこうもね秋って特別扱いなんでしょうか?この人間様の秋贔屓、秋至上主義、秋万歳は未来永劫続いてくんでしょうね、きっと。

でもね、わたしも秋は、多くの人が好むように、好きです。そりゃとても松茸とか椎茸や秋刀魚とか、そういう旬のモノってありますよね?旬の食材、季節のものですね。例えば、秋っていう季節は、我々が心の中で描く秋は、ねアレですよ。まさに秋刀魚とか赤ちゃんの掌みたいな黄色い銀杏の葉っぱとかそういう要素が秋という季節を構成していますよね。何というか、私がどうも腑に落ちないないのが、その秋の要素同士の、紅葉と椎茸と秋刀魚、そういう要素同士も幾らか関わり合いがありそうというか、全く不自然な並びじゃなねというかね、だからある意味不自然な感覚を受けてしまう。何だか妙にしっくりくるなぁと思って、納得してしまうんですな。

じゃあそこに、何でもええんですが仮にアボカドが、秋のその構成要素たりうるラインナップにドヤ顔で鎮座していましたら、ね。紅葉、秋刀魚、アボカドって並ぶわけですよ、秋代表として。秋刀魚、松茸、阿保門ですよ。こりゃイカンデスヨネ。

 

 

 

冷めたやつ

花火とか桜とか富士山の山頂から見た御来光だとか、初日の出とかね、そういうものを大勢の、多くの人間と一緒になってみると、何となく不安になる。

でもこれは単なる、あまり余った自意識からくる不安で、昨日僕が行った大曲の花火大会を例に考えると、周りの全国から集う老若男女や横にいる友人がこの花火を見て綺麗だという言うように、自分もこの闇夜に煌めく光景を見上げながら、心から美しいだとか、そういう類の感想が漏れ出るか、否か。でも多分そんなつまらん事をあれこれ考えてる時点で、あぁと、そもそも目の前の真夏の一大イベントに対して全く集中できていないし、もはやその問いに対する解はほとんど、考えるまでもないかもしれない。

この巨大な円形に広がるカラフルな光をみる、それと同時にこれは沢山の人間によって見られていて、皆各々感想を抱く訳で、そういうオマケ的な観念もちゃんとごっそり絡め取られて、人の熱気陽気が心の中に潤浸してくる。で、結局はトータルして概ね花火は綺麗かもしれんといういい加減な想いを抱きながら、大体満足したと決め込んで、のろのろと高速に乗った。