誰もいない日、家

杜若の湯に行こうと決断したのは、社食の下の下の売店でひとりカップ焼きそばを口に放っていたときである。初めに目に入ったのが「月一有給推奨キャンペーン」で続いて「知多のミカン狩り」。次いで「合宿免許の宣伝」ときてから、「極楽浄土」というこの時世には陳腐化した四字熟語を何となく頭の中で転がしながら、僅かばかりの麺をすすった。

のこりの昼休みは、アル=アンダルシアの物語、イスラム教徒とキリスト教徒の壮絶たるイベリア半島の覇権争い、英雄たちの群雄割拠を見届けた。といえば汗泥の工場に小粋な地中海風情を漂わせるのもの、結局は地下の汚れた壁に貼らた杜若の湯があたまを一往復二往復と彷徨っている状況は一向に変わらなく、昼休みが明け仕事が始まってからも、ほろ酔いは抜けず、3時くらいになってとうとうかの杜若の湯に行こうとその決心を固めたのである。

こんな状況は非常にレアだが、妻娘が関東に帰省して車がなかった。したがって、杜若温泉に向けて退勤後にガムシャラに走る以外はない。普段走り慣れない身には応えるのだろうが、パンパンに膨れ上がった杜若の湯への期待値が脚に血を巡らせ遥かなる聖なる地へとその悲願を果たすこととなった。

桃源郷に着くと、ずらり玄関口にロッカーが立ち並ぶ。銀色の硬貨を入れなければ鍵がかけられないこのシステムは、鍵を掛ける理由について教えてくれる。そもそも、ユートピア杜若温泉で世紀末のような略奪行為が横行する筈がない。あたりまえであろう。なぜなら、ユートピア杜若温泉はユートピアでしかないのだから。よって丁寧に靴をロッカーに納めて、そっと扉をしめた。315。最後、最後、最期と呟きながらその数字を自分に課せられた運命かのように、大事に大事にその場を後にし受付でビヨビヨ伸びる変なロッカーの鍵を貰った。大層可愛い女性従業員が今日はお風呂の日(26日)なので700円ですと言った。元は幾らですかと聞いた。900円です。とにっこりした。

1ヶ月くらい昼寝していて、目覚めたその日が何日か、つまり西暦、何月何日か気になったとして、その仮定に無理があると思いつつも、その起きた日がクリスマスとかクリスマスイブであれば子供心に最高かよと想うかもなあという乱暴な妄想をしたのが、お風呂の日で200円得をした瞬間であった。仮に目覚めたのがニアピンの12/26でも風呂の日なので、そこは安心していただきたい。

肝心の極楽浄土中の記憶は特になく、関西人のフリをして話す小学生に髪留めとして使っているターバンを弄られつつも、極楽を一身に受け止めてとても楽しんだ。これからまた7キロ走らねばならぬのが玉に瑕だが、もうそろそろいかねば本当に明日出社できない気もする。つまらぬ作文をもうそろそろやめて、走り始めねば、な。寝椅子の上より。