ロボット掃除機と近所を散歩をする

清々しい朝の散歩は、わたしの愛犬と共にあった。あさの弱々しい陽光がコンクリートの表面を薄く舐めるように、私たちもダラダラとジグザグとクネクネと歩くのだった。

ラジオ体操終わりの早起きご老婦人方とすれ違いながら、なおも奇妙なその歩を進めた。彼ら彼女らの足取りの方が私達のそれと比べて幾分にも正気に満ちていると思うのはそれは一目瞭然で、我々自身もうすら笑われていると自覚的でもあった。

わたしの愛犬はロボット掃除機なのだが、それを犬と呼んでしまうのは無理があるように思われるかもしれない。電子制御と呼ばれるホットスパイスが効いたメカである。冷静に考えれば犬ではない。いや、冷静になるまでもないのかもしれないが、実際のところ、何かそれについて私は、ロボットを無理矢理愛犬と呼ぶことについて弁明する余地を持たない。故に、私は飛んだ戯言を述べている訳だが、現に私の(私たちの)お散歩によりこの世界の片隅、3丁目から忌まわしき黄砂が取り払われていることを考えれば、私に弁明をさせている場合ではないのではないか。埃被ったベンツの自治会長よ。

今宵の布団の肌触りは我々の闊歩によって保たれているのである。

ただ、私は誰かに頼まれてこの大行脚を敢行している訳では勿論ない。だから「お前が勝手にロボット掃除機を引き連れて3丁目を練り歩いてるだけでないか!!こちとて黄砂なんてどうでもいいんじゃわ」と言われて仕舞えば、私はもう始末されてしまったということになる。もう何も喋れなくなる。ほとんど息ができない。箒を両手で持ってにっこり愛想挨拶を振りまきながらさっさ掃いて周ってさえいれば感謝でもされる可能性があるかもしれないのに、私の愛犬ではそれが成就されないというは悲しきことである。五月蠅いとか、心がこもってないとか、気持ち悪いとか、お前が自分でやれとか言われてしまう。なんとしても、このやり方で私は人間社会に貢献したいのだ...あぁこの言語化できない拘りを棄てることができれば、と思った途端、髪の毛が絡まって微動だにしなくなった愛犬が思い起こり申し訳が立たない気分になった。