散乱

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これが山本家の日常の惨状、惨劇なのだが、これを楽園と捉えることもあり得るかもしれないと、ちょっと冒険的なことを言ってみたくなるものだ。

 

その心は、人は整理されてるものも好きだけど、散らかってるものも、同じくらい好きではないかと。

散らかっているものの代表格は自然である。例えば木々のような、山に聳り立つ林をイメージしてもよいし、上流から急峻な斜面を蛇行しながら流れる川のような光景をイメージしてもよい。川であれば、小さい小石とか流木とかが絶え間なく推し運ばれてくるし、雨が降れば水嵩が増して勢いも増す訳で常に状況が変化する。状態がA→B→Cと絶えず変遷しつつ、整理された状態0を経由することはない。

一方で、山本家の惨劇は確かに、娘様の遊戯の匙加減次第であるが、A→B→Cと状態が移りつつも、何処かで我々というものは、耐えきれなくなって整理を行ってしまう。人為的に作りだされた状態0に至るのだ。至るというより、みづから至らしめるのだ。それからまた自然的にD→Eへと散らかっていく。

 

ここで自分が言いたいのは、上で自分が言った「モノが散らかる」というのは、表現として誤っているのではないか、という類のはなしである。

どちらかといえば、むしろ我々は意図的にモノを散らしていると言う方がしっくりくるように思うのである。私達は整理も乱雑もどちらも両方欲しい贅沢者なのではないか?どちらもシーサーのように行ったり来たりを繰り返しながら心の安寧を保つ不思議な生き物なのではないか、休日になるや自然を求めて湖畔にキャンプに行き、平日にはコンクリートの檻で労働をする。どちらも必要で、そのどちらに本質的な優劣はないのではないか。私達はどちらか一方に正解や善悪があると思い込んでいるのではないか?

 

そう考えると、冒頭の惨劇は惨劇ではないのだ。楽園とは言えないも、ただ、そういう状態であった、というもっとドライな捉え方になるもしれない。