3・12 ゴルフ

本日のゴルフのスコアは142。

140という壁を突破することがなかなかできないでいる。

もうかれこれ3回も行っているが。

も、かどうかはしらいないけど。

わたしは数字を純粋に数えるのがにがて過ぎてこの打数、この「142」という数字が正直正しいかと言われると自信がない。

どれくらい自信がないかって、センター試験の自己採点くらい自信がないかもしれない。

林の中で球を捜索しているときに、自分が何打打ったのか、わからなくなるときがよくある。

打数をカウントするダイヤルみたいのを胸につけていたけど、それも回すのを忘れたりして結局頭で数える羽目になる。

ゴルフという紳士スポーツなるは、エビデンス主義ではないのだろう。と思うことがある。

ボーリングやダーツ等と違い、デジタル化が難しいというのも無論あるだろうが、それ以前に、紳士の前提として虚偽はあり得んというか、そういう世界観なんだろうな。

だから虚偽の意図するかに関わらず、スコアは真の値でなくてはならなくて、もちろん何の競技でもそうだけれど、ことゴルフは、紳士のために血眼でスコアをカウントせねばならない。

血反吐を吐きながら。

ただ血眼でカウントすると、肝心のプレーの方にリソースが割けずそちらがお留守になってしまう。

七番アイアンで打つところを、サンド(バンカーでつかうやつ)で打ってたりもする。

でも、これはわたしだけかもしれない。

3・11

10年前は何をしていたか、ちょっと考えたかもしれない。

当時のわたしは高校2年だった。

何を考えてたとかなんにも覚えてない。部活をやっていた訳でも、受験に向けて勉強をしていたとか、そういうのも多分ない。

今でも二、三ヶ月に一度この日を思うことがあるが、自分についてとくに何も得られない。

覚えているのは、地震の瞬間はパスタを茹でていた。それで慌てて火を止めた。

10年先の。2031年に本日のこの瞬間を思ったとして、とくに何も得られないという事態に見舞われるだろうか?という問いに対して、どうなるか、正直なところ予測が立たない。

それは10年後の私が存在したとして、現在のそれをどう評価するかという話なので。10年後の私というよくわからない生き物が備える価値観による。

わたしは、とくに何も得られないという事態になると、敢えて予測しとこうとおもう。

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10年振りといえば私は最近スティールボールランを読んだ。全巻買い揃えてしまった。

過去に中途半端に読んだもので、ナンバリングでいうところのジョジョ奇妙な冒険第七部に相当するものだ。

本作は一応は、馬でアメリカを横断するレースだ。

もちろんジョジョなので基本的にはスタンド使い同士の攻防で、

本作は実際のレースの裏側には大統領やローマ正教による聖人遺体をめぐった策謀が渦巻き、奇妙に展開される。

これはジョジョ的なコンテクストで普通に読むとそうはなるのだけれど、これをアメリカ横断サバイバルという違った視座でみても超面白い。

ゆるキャン的な視座で。

ベア・グリルス的なそれで。

やはり荒木飛呂彦の作品はどの角度からみてもエレガンスで洒落が効いてる。

馬はないので自転車サバイバルがしたくなる、そんな逸品。

 

 

3・10

わたしと妻は新大久保に来た。

そろそろ職を決めないと色々まずいが、遊び惚けている。

新大久保。いわずと知れた韓流タウンだ。

いろいろ妻と二人で練り歩いて、腹が減ってきた。

サムギョプサルという豚バラ焼肉の店にわれわれは入った。サムギョプサルについてもう少し補足しておくと、サンチュと呼ばれる葉ものに豚バラ肉とキムチやらをのっけて焼いて食うものだ。

ちなみにどうでもいいけど、チーズタッカルビのタッの部分は鶏肉の意らしい。まあ消去法的にそうなるだろうけど。

鬱蒼と汚いビルの地下に降りてから、我々放蕩夫婦は検温と除菌を済ませると、店の中央のテーブル席に通された。

ひとはぽつぽつまばらには入っていた。空腹で思考停止した我々は目下の店に吸い込まれたので、あまり信用はならない。

韓国人ぽい兄ちゃんがおしぼりとか箸とかメニューとか不愛想に持ってきた。我々は脊髄反射で70分サムギョプサル食べ放題コースにジョインしていた。肉を三種のうちから二種選択せよと言われたので、バジルとプレーンのサムギョプサルを選んだ。

70分はスタートした。

ものの数秒で肉が運ばれてきた。クールな兄ちゃんは鉄板を温めようと火力をマックスにあげた。それですぐにどっかいった。

我々の前に生肉が置かれてある。

鉄板は温まったようだ。

我々はサムギョプサルの作法は無知だがとりあえず目の前の生肉を焼こうと、われわれの本能がそういった。

そう、これはきっと思考を介さない動作だ。

わたしがトングで肉をつかもうとしたそのとき、鉄板の表面がすこし陰って暗くなった。

あの兄ちゃんがいた。

笑ってもいないが、不機嫌な感じは別にない。

無に祝福された男。

わたしは生肉を掴もうとしたトングを置いた。そっと。元の場所に。

そう、これは思考を介さない動作だ。

兄ちゃんはアルミを手早く鉄板に敷いた。そしてトングを掴んで生肉をさっさっと縦に列に並べた。

この時、われわれ夫婦の両手はそれぞれの膝の上に規則正しく置かれており、背筋も伸びていた。

わたしたちは肉が焼けるのをただ待った。無言で。

その間もその例の兄ちゃんが時折我々のところにきて肉の面倒をみた。

肉が焼けたという時分になって、ようやく兄ちゃんは口を開いてどぞ!!!!と声を上げた。驚いた。思わずわれわれ夫婦も目をあわせた。

先ほどまでの緊張感が馬鹿みたいと思うほどに、あっけらかんとした声だった。

片言の日本語が手伝ったというのもあるかもしれないけれど。

我々はガツガツそのサムギョプサルなるを頬張った。

うまい。

すぐさま次のサムギョプサルを焼いてもらうために彼を呼んだ。

すぐに来た。

プレーンとまだ頼んでない味を注文した。

それらは運ばれるなり、また彼の管理下のもと調理が始まった。

わたしたちはその間チャプチェを食べるなりをして待った。いい感じに焼き目がついてきたと思うと、彼が影のように現れてトングで裏返して、そしてまた消えた。それを繰り返した。

焼き具合もそろそろいいんじゃないの?と思った頃には、彼はわれわれの眼前にすでにいた。

ひょろ長い。痩せ型。親近感を覚える。

彼はハサミで肉を細かく切り始めた。さきほどと同様に何の躊躇いもなくハサミを進める。あと数秒で、どぞ!!!が拝聴できるだろう。

と少なくともわたしはそう思っていたが。

彼は切り終わるや、ハサミをおいて消失した。すでにいない。

われわれ夫婦は手を膝に置いたまま、どうすべきか議論した。これは食べていいのか?それとも例の

「どぞ!!!!」

が出ていないからまだ完成していないのかもしれない。

サクラダファミリアのように。

われわれは議論の結果、これは確実に火が芯部まで通っているし完成している判断した。

彼があのあっけらかんとした声をあげなかったのも、気分だろうし、そもそも常時がこの不愛想なわけであれは突発的に出たバグのようなものだろうという結論に達した。

そんなこんなで、肉をサンチュに巻いて頬張り始めた。

くそうまい。

われわれは夢中で食い続けた。

鉄板がすこし陰ったのに気づいたのは、わたしが先だったと思う。

 

 

3・9

youtubeに落ちてた慶應理工物理情報数学Bが午前中を華麗にさらっていった。既知情報の確認も多かったが、二倍速にして四回分の講義を一気にみれるほど楽しい。

他にも色々みたのだが、先生によって表現や頭の中のイメージが微妙に違ったり、自分の研究バックグラウンドに直結しそうなとこだけやたら熱が入っちゃったりとか同じ線形代数の講義であっても喋る人間によってこうも変わるのか、と。

youtubeひとつで色んな物語を帯びた線型空間を味わえるのでいい時代だなぁと。朝にみた慶應の先生の中で印象に残ってるのは「行列は元々ありきじゃなくて、基底の変換の際に必然的にでてきてしまう」みたいはことをおっしゃって、「必然的に出てきてしまう」はカッコよくてお洒落だなと思いました。

 

 

 

落語とか講談とかも、線型空間を語る講義と台本というか背後のコンテンツ(数学しかり物語しかり)はほぼ決まっているという点で類似はある。

落語家で言えば、彼らは技術をお師匠さんから伝道されて継ぐものであり、語りの技術で彼らは客を魅了する。しかるに、もとのコンテンツは変えないというか、ノータッチというか、寿限無の台本は寿限無から逸脱せず不変だ。

教授は線形代数から逸脱するかと問われれば、線形代数の中身を改変するということは少なくともしないであろう。てかんなことできない。

線型空間の定義に対して、「ちょっと今日はセンスが冴え渡り過ぎるので」とひとこと前置きを加えて、「教科書の線型空間の定義にtimpo@最高と書き添えてみてください」と何食わぬ顔で生徒諸君に言ったとして、それは敬意の対象、先人方のこれまでの発明が覆ることになるし、そもそも論理がない。寿限無寿限無

大学教諭というものは、落語家とくらべて語りの技術というものは確かにないだろうし、線型空間に定義を加えることも叶わない。ああもうだめだとそう思ったとき、そういや、線形代数じゃあない話をするのはありじゃあないかと。

昼休みパチンコで30溶かしたとか、メトロの線路にパクった傘落としたとか、やたら軽いギヤでチャリ踏み続けるギャルが遅いとか、そういう全くもって線形代数に関係のないお話。

でもそこから、それらの全く関係ないお話を延々やってたら見放されてしまう訳で、それはまずいのだ。

だから、線形代数に戻ってこなければならないけど、例えば今話した与太話群が基底ベクトルに対応して、線型空間をなしているんですはははとか、そういう風にして戻ればマシかもしれません。

 

 

 

(ごめんなさい下記不要です)

ベクトル空間から関数に応用してからの三角関数の直交基底からフーリエ展開へはなるほどなとこれは大変に目から鱗であった。

また別で微積の厳密な定義のところもやった。微分積分は逆の演算という話が脳内に刷り込まれていたが、たしかに実際結果論的にはそうなのだが歴史的には積分が先に発見されて、その後に微分の逆演算であることが示されたという話も学びがあった。

集合論と位相も駆け足だったが、ネットの海を彷徨いながら何とか貪欲に学びとった。次は代数学の方向に進んでみたいと思う。

 

3・8

炬燵の中に足先を突っ込んで眠っていた。これは昔からよくやることだったので、とくに不自由は感じない。寧ろ心地良さすら感じる。

大学時代によくサークルの代表宅でこの炬燵寝法なるを習得済みという訳で。

妻の足が眼前でバタバタしてるが、これでもどうやら寝てるらしい。どんな夢をみているのか、わたしの想像力では正直なところ追いつかないだろう。

これまで度々、妻と朝方にみた夢の話をした。人の夢の話ほどしっくりこなくてつまらんことはないと思う程だが、正体不明の引力に惹かれて聞きたくなってしまう魔性の文学かもしれない。

 

出汁の香りが部屋に充満してきて、完全に目が覚めた。妻も起きていた。バタバタしてたのは確信犯をやっていたのだろう。

机にお吸い物が並んだ、我々夫婦よりふた足くらい早起きした妻のお母様が用意してくれたものだ。

たいへんありがたいおはなしだ。

お母様は麩が想像以上に膨らんだといった内容の悲鳴をキッチンから発した。妻は「だから言ったじゃん↑?お麩は袋全部いれないでしょ普通、昨日いったじゃん」みたいにたしかギャルっぽく言った。

ごめーんとお母様は謝った。

確かにお吸い物にしては麩の体積が半端なかった。

お麩  in  お吸い物

が、

お吸い物  in  お麩

という逆転した構図を取っており、わたしとしては何ともこれが新鮮で、朝っぱらからたのしかった。


そういえば、スシローに妻と3時くらいに足を運んだ。クソみたいな時間のせいで寿司が全く回転してないし、頼んでもいつものスピード感は影を潜めた。

わたしはウニラーメンとやらを頼んだのだが、それも

ウニ +  麺 in  汁

という構成を勝手に期待していたのだが、手元に来てみると

ウニ  on  麺

というそれだった。

わたしは朝の微妙なデジャブ感をほくほくしながら食べていたのだが、よくよくタブレット端末をみるやその商品は「油そば」なる記載があった。

端末の写真はというとしっかり汁に浸かっている

ウニ +  麺 in  汁

の様相を呈しているだけあってそこは、名称と異なる捩れ国会状態になっていた。

ただ、その混乱のお陰でわたしは今朝のデジャブ感に入りびたることができた。愛でたし愛でたし?

 

ただ、これらの混乱はわれわれが麺には汁がお吸い物は汁が必ずしも入っているという暗黙知がわるさをしているといっても差し支えはないかもしれない。

わたしがメニューをチラ見して、脳髄反射的にウニと麺コラボを食いたいと願ってそれを頼む際、ウニ+麺→汁というものを勝手に創造してしまった。五右衛門がつまらぬものを斬ってしまったように、我々もついつい、つまらぬものを創ってしまう。

この瞬間も、わたしはつまらぬものをつくったように。

 

 

 

 

 

 

気孔の日和 3・7

東京ミッドタウンで昼から紹興酒飲み比べセットをやるとは思わなかったです。5年ものも10年ものなるも、バーミヤン100円紹興酒に飲み慣れたわたしからすると少々度肝を抜かれたし、飲むのが赤子の手を捻るごとく容易い。

すっと入る。沁み入る。

六本木。はいそさえてぃ。ははは。

 


お陰さんで調子に乗ってベロベロになりながら21_21 DESIGN SIGHTなるコンクリート打ちっぱなしの三角定規のようなきりっとした建物に、お嫁様とそのお母様とわたしの3人でベロベロになりながらも、ハイソっぽい雰囲気をドゥルドゥル出しながら向かいました。

そこでは代わる代わるいろんな展示会がやっているのですが、今回は「翻訳」をテーマにしたもので、わかりあえないプロセスを楽しもうぜ!!的なノリのものです。

翻訳と一言にいっても真っ先に頭に思い浮かぶGoogle翻訳的な話も取り上げられておりましたが、そういうものに留まらずアート的な表現まで拡張されてetc...という感じで、何でもありと言ったところです。

 

 

植物の葉っぱの裏にびっしりしてる気孔ってのが、こう、パクパクするんですよね。上唇と下唇が開閉をするんですよ、まるで言葉を発するように。

そんでもって、どっかの読唇術できるおっさんが、

気孔の開閉ムーブはきっとマジモンの植物様の御声だから、俺の読唇術で何とかなんねぇかな。と。

わたしもこの読唇術髭おっさん翻訳者を媒介に植物さんの声を聞きましたが、aou pau kou ...といった具合が終始続くわけで、何かこれは暗号めいたもので解読する鍵があるのではと前向きに考えてみたところでIQサプリ荒木飛呂彦的なそれで培われたような技術しかない訳で、無性に画面越しの読唇術髭おさっんにモヤッとボールなるを叩き込んでやりたい衝動にかられたわけですが、勿論手元にそんな都合のいいもんはない。

しかもその髭おっさんはというと、手抜きを覚えたというか、いちいち何十秒かに一度程しか口を聞かない気孔の読唇なんぞ相手にやってるのは面倒になってきたわけで、顕微鏡にカメラにraspberrypiを接続してしかもモデルまできっちし構築して悠々自適にオートメーションしているらしく、ね。

おっさん作のそれも横にひっそり展示されていました。

その他、色々展示がありました。鮫と本気でやろうとしてるオナゴとかもおりました。中々に分かり合えないので、どうぞ足を運んでみても悪くはない、かもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

亀雪崩 3・6

5人、カラフルな婆婆が跳ねるは跳ねる。老体に鞭を打つ。魚の群れが身を捩らせ水面から跳ねるように。躍動する。

靴は履かない。靴なぞいらん。でも流石に靴下は欲しい。なぜならば、石はひやり冷たいから。

成田山新勝寺の境内、わたしと母はいくらかの時間その光景をぼけっと眺めた。母の不機嫌なるも手伝って、わたしは尚更吹き出しそうになったけど、さすが吹くのはやめといた。

この婆婆らは自分らが何を踏んづけているか、おそらく理解できていない。

物理的な石を踏んでいるのみだと感じていて、ツボを刺激する丸くて硬くて気持ちのよい最高のオブジェクトくらいにしか思っていない。

または何処ぞの空間では熱心な信徒であってもこちら側に映り込んだ像がたまたまこの有様だっただけで、悪い子は写像、映写機かもしれない。

 


寺の境内というものの中には、石が無数に敷き詰められている。我々があの上を歩行すると石同士がぎゅっぎゅっとひしめき合って鳴きはじめる。

鳴くといっても少なくとも、嬉々としたものではないのは確かだし、新雪を踏んだ音ほどサバサバした無感動な音でもない。

それより耳掻きを突っ込んでさっとかき回したときの、鼓膜に伝わる振動、ザクザク感、これらのフィーリングが近しいかもしれない。

これはわたしが懇切丁寧な主観を披露するまでない経験だろう。

玉砂利、というらしい。この玉砂利なるが、境内に無数に散布されているのは、玉が魂を意味しているらしく、その洒落の利かせ故らしい。

本当なのか、本当でもなんでもいいんだが、そんなつまらんことのために、この玉砂利やらは配置させられていて、それでいいのか?とわたしは思ってしまう。

それよりも婆婆らのツボを刺激するデバイスであって下さい。それでいいと思います。

 

池中央の岩礁で亀雪崩ことタートルフォールが発生したのが、霊魂跳躍婆集団を目撃したほんの二、三分直後だったことと思う。

因果は不明。

おびただしい数の緑亀、甲羅干しに登った岩からバラバラ水中に引き戻される。崩壊。

因果は不明。

 

 

3・5

幾らかの茜霧島でだめだ。眠たくも頭が痛く、親指が辛うじて動くようなこの状態で日記を綴るというのは、相当な精神力がなけらればならない。日が変わるまであとわずか。

そこまでしてやんなきゃいけないのか。

寝るという選択肢は往々にあるけれど。

寝ちゃっても誰も困らんけれど。

日報生産マシーンなるわたしは日記を書かない限り眠ることを許されないという暗黙空間の只中にあって、その暗黒空間を創り出したのは誰かって、創造と破壊の金髪ギャル女神である我妻マ・ポリーンによってである。

 


久しぶりの千葉の実家だが、なんというか、親という生き物が我が子であるわたしを凄く凄く誠実で真面目で優等な人種だと思っている、思わずにはいられない。

違和感以外になんか存在するのか。いや、しない。

わたしがそんなんでもないすよーと異論を述べても、母は皆そんなもんだとか、アンタはやっぱ発達障害なんかじゃないし、安心しろい!アンタは全然普通だしOKOKと仰る。アリーヴェデルチ

わたしはてきとうにそうだね、という。この人たちはそう思いたいのだからそれが幸せだとおもう。

わたしはこの場にマ・ポリーンを召喚してゲロくらいいっちょハリキッテばら撒いて欲しいと思わずにはいられんが、ゲロ神様は戸田に格納されておるので、そうもいかない。

 


仰向け寝転がりながら操作するスマホが顔面に落下した。いたい。光る画面を両目に、冷えピタのようにピッタと付いたけど、ぼやけて何もみえたものじゃない。

3・4

赤羽の電光掲示板が高解像度であることに驚く。武蔵浦和まで埼京線にゆられ、武蔵野線に乗り換えた。豊橋で買ったピレーネなる菓子を頬張ったがやたらと美味い。

飛び乗った海浜幕張行きはいかんせん人が多いし乗客の面々も終始浮かない表情というか、彼らに生き生きした表情をされても困るが、表情以前に醸し出す雰囲気がもう死に絶えておる真冬の蝉のそれだった。

彼等には床に転がるオレンジが見えているのか分からないが、とりあえずわたしはそれがしっかりと見えた。

オレンジが一つ床にある。

これがオレンジかどうか断定はできないが、それに近い柑橘類の何かだろう。デコポンかと言われればそうかもしれないし、ただ、みかんのサイズではない。檸檬でもないだろう。確実に。

これが仮に檸檬だとしたならば、梶井基次郎の仕業の可能性が考えられるが、いや、彼はこんな武蔵野線の車両の床なぞに檸檬を配置するという芸当は、まずしないだろう。

車両が小刻みに揺れるが床のオレンジなるはそこに相変わらず微動だにせず居座った。わたしは終始そのオレンジがある床一帯を眺めた。

革靴らがオレンジを踏んづけそうになりながらも、いつも寸前ところでそれは不思議と回避された。微動だにせず空間に張り付いたままのオレンジが革靴の奇襲を回避するという奇妙なる矛盾すら感じとれた。

でも恐らくこの矛盾は嘘で、革靴の主たちはオレンジの存在をしっかり認識して避けているように思う。

 

 

先程乗った新幹線でeggなるギャル雑誌のyoutubeチャンネルに、わたしは釘付けだった。

わたしの中での認識ではギャルというのは、陰キャに関わらずなぜか阿保みたく敵陣まで攻め込みまくって成った突然変異種みたいなものだという今のところの見解なのだが。

ギャルなる存在とこの孤高のオレンジが奇妙にシンクロしながら、いや物理的にはギャルは孤高ではないのだが、とにかくこれらがわたしのギャル像を静かに醸成していった。

3・3

かの哲学者ショウペンハウエルは書くために書く輩をこれみよがしに批判した。何か主張したいことがあるならそれを表明したらいいし、ないならそんなことをわざわざする必要性が皆無であると。

彼が21世紀のネット社会を目にしたら頭を抱えて発狂する事はほぼ間違いないことと思う。

さっきTwitterで見かけたのだが、村上春樹が昔こんなことを言ったらしかった。SNSをなぜみないのか?の問いに対して、ネット上に転がる大体の文章が酷いもんで、やっぱりいい音楽とかいい絵画とかだけ見て過ごしたい自分にとってSNSの文章は読まないに越した事はない云々。なるほど、なるほど。

 


わたしとお嫁様は今朝、ようやく先週くらいから下準備していた味噌作りに再び取り掛かることにした。茹でられた多量の大豆たちが、わたしのカムバックを冷蔵庫の暗黒で期待しているはずなどもないのだが、気分がわたしに行動を促した。

と言っても、あとは大豆を潰して米麹と塩を混ぜまくってコネコネすれば造作もない、終わりである。

わたしは何の気なしに、手でコネコネし始めたのだが、お嫁様が突如、悲鳴を上げた。

わたしはとりあえず手を止めてお嫁様のご尊顔を覗いた。どうやらわたしの穢れの多い手で味噌をコネコネするという行為そのもが、味噌が雑菌の温床と化すリスクが存分にあり得るわけで、アンタ阿呆じゃないのdっwぢじゃふぃjいえんフィオ絵フォイエjフェオ位フェオ伊jフィ!!!!と言った具合であろう。

わたしは今朝の味噌作りを思い出しながら、何となく、わたしの生成したこの味噌を村上春樹に提供したいなぁという欲求が泡のように浮かんできた。

村上春樹に俺の渾身の味噌を食わせたい。浴びせたい。

やはり氏といったら美しい味噌に取り囲まれて日々の端正な生活を送っているだろうから、わたしの菌のサラダボウルと化したグローバル味噌を実食、もちろん視覚的にも精査していただき、何たるやの意見をいただきければこんなに嬉しい事はないかもしれない。