3・2

コンビニの駐車場は結構面白いかもしれない。

 


無断駐車厳禁、前向き駐車のお願い、アイドリングストップ禁止。これらを促す看板が敷地至る所、柵という柵に張り巡らされている。

我々はコンビニに車でくるや、これらのお願いをされるわけで、何故にお願いをされるかというと、無断駐車をする人間、後ろ向きに駐車をする人間、アイドリングをする人間、こういった各種人間が世に一定数いるからであり、近隣住民やコンビニ側が迷惑を被っているからであろう。

 


昼間からパラパラを踊っている明らかな陰気成人男性がコンビニの前にいたとしよう。

あくまでに仮定においてのお話で。

その見窄らしい男の腹揺れる激しいパラパラがそのコンビニAの営業妨害にあたるとして男は注意を受け続けたが、一向に男はパラパラを止める気配もなく一週間がたった。しかも人数も増員しており気付いたら数名ほどの束になっていた。

コンビニAはパラパラ族に対して営業妨害なるで賠償を請求しようと考えたが、その前にとりあえずはパラパラ厳禁なる看板を用意してそれを敷地内に設置した。

ちょうど、その時期に所さんの何ちゃらの旅が偶然コンビニAのある街を射抜き、結果幾らかのカメラ人がどっと押し寄せた。

その際にパラパラ族はテレビの画面を幾らかの尺を持って占有した。メディアで賛否両論あったものの取り上げられ、パラパラコンビニとコンビニAはもてはやされた。

この動きに便乗して集客を狙うコンビニAはパラパラ厳禁を解除し、パラパラ歓迎なる看板を敷地内ににそれこそ至る所に張り巡らした。

しかしながら、パラパラ歓迎なる看板を設置したもののそれからはパラパラ族はコンビニAに現れる事はなかった。元々、パラパラ族はどこの馬の骨かと言うならば、向かいのフランチャイズ店コンビニBの工作員で、パラパラは彼らによる妨害行為だった。

よってパラパラ族は自陣のコンビニBに戻りパラパラを発狂したように踊り集客を狙った。近隣のコンビニC・Dはパラパラ踊り手募集なる看板を打ち立て生き残りをかけ奔走した。よくわからないが不毛なパラパラ戦争がここに始まった。

 


わたしはなにが言いたかったか、忘れてしまった。今日は寝てばっかだった

。かなり不毛だった。この文章が証明してくれるコトと思う。

 

3・1

ひたすらに線型空間と見つめ合って終わりました。

ただ虚空をみていたわけでは、ありません。

ネットで資料をさらいながら線型空間線型写像行列式テンソル空間くらいまで一気にやったけれど熱中しすぎてこのクソ日記を書くことも忘れていました。。Uber eatsも今日は行こうと思っていたのですが、そんなことは強制的に忘れました。

大学生の頃はすごく毎度の授業がだるくて、わたしは後期からは一度も線形代数の講義に出なかったと、記憶しています。あの頃からそういう好奇心なりを持って頑張ってやれてた人々はそりゃ優秀だと、それは当たり前ですね。

魔法陣みたいのをひたすら計算させられ、ひたすら逆行列とかいうのを求めさせられたり、修行僧のようなそれに、おそらくわたしはシンプルに挫折しました。

線型写像が中学のころの一次関数をn次元空間まで拡張して一般化したものという理解も当時のわたしにはある訳がなかったし、ただの脳死演算マシーンと化していたことと思います。単写全射の概念も全く知らなかったです。

ただ、脳死演算マシーンの時期も経ての、今になってのインストールが捗るというのもあるので、勿論無駄ではありませんが。

勢い余って集合論のようなものまで手を出し始めましたが、はちゃめちゃに難しいです。一件当たり前のようなことまで丁寧に定義要請しながら進むというか、なんかこれは初心者殺しというか我々を嵌めるための仕掛けなのかとか考えたのですが、勿論そうではないらしく、当たり前っぽいこともそんな当たり前じゃないだというスタンスがこれを創ってきた方々にはあるようで、石橋を叩いて渡るというか、デカルトのこの世のものはとりあえず片っ端から全部疑いまくって結局疑えないのは唯一は己の考えているという意識そのものでした、ちゃんちゃん、みたいのを思わなくもなかったです。

2・28

朝からわたしは、いしるの虜だ。「いしる」なるは日本三大魚醤の一つであるが、魚醤と言われて想像するナンプラーほど癖の強さがないが、マイルドで和のテイストに親和性が高い。何というか使いやすい。最高すぎる。使いやすく手軽にアクセントを加えることができてもう声が出ませんすみません。

社員独身寮に住んでいたころ、わたしは周囲からテロリストと囁かれていたことがあった。共同調理場でフォーを毎朝生産した時期があり、業務スーパーで大量に仕入れてからというもの狂信的なフォー信者となっていた。

その際にナンプラーをドボドボドーボドボ使ったので、廊下という廊下にナンプラー臭気が浸透していった。廊下からドア越しに咳き込むのが聞こえた。

臭気の拡散と反対に、わたしの人権はみるみる消失していった気がするけれど。人権とフォーを天秤にかけてフォーが勝ってしまったのでこれはいた仕方がない。

いしるの存在を知っていればかのような、苦渋の天秤にかける必要もなくなるので強く、ここでわたしはいしるを推したい。言うまでもなく、ここで書いた事は便所の落書きとそう遠くはないことだが。

 


養命酒は至高の一言に尽きる。というのも、いつだが養命酒のHPを散策していたのだが、AI養命酒なるものが抽選で12名という微妙な人数に当選する、との情報を目にしてしまった。

このAI養命酒なるは、SONYAIスピーカーなるがマトリョーシカになってるという大変に身も蓋もない製品なのだが、さらに懲りないのが、AI養命酒メタルエディションDXなるものも緊急追加なる小見出しで堂々紹介されていた。

一見、ちょっぴりすべった一発ギャグに見えなくもないこのキャンペーン企画も、言うほど飛び道具的発想のそれではないというのが私見なのだけれど。

養命酒スマートスピーカーにしたい欲求を抑えられなかった?のは何となく理解できんくはない。というのも養命酒の一リットル瓶は我が家の居間でもお嫁様の次席くらいには存在感を放つ。さらには安定感を有しているし、そういうことです。はい。

 


そういえば先ほど妻が「カットMP」と呟きながら、ニッコリわたしの方に歩み寄ってきた。ニコニコというよりニタニタしてる。北センチネル島の未開民族のごとく、迫りくる宣教師を前にわたしは一瞬、身構えた。

彼女は左手に出刃包丁のような、あの小さい手にそぐわない樹脂の櫛と右手には頼りない糸切ばさみのようなものを握っている。長い金髪が下の方で左右に揺らしながらキッチンの方からやってきた。

わたしは気づいたら、硬く冷たい丸いすに座っていた。パンイチなのでまじで冷すぎた。ズボンを履きたいと懇願したら、彼女はパンイチの方がむしろ都合が良いと言った。

後頭部の方から血気盛んなモータ音がする。これは明らかにモータ音だけれど、あまり聞き慣れた感じがしない。なにかガリガリと言うか、ドライヤーモーターのようなソフトでモワッと広がるような感覚とも異にするし、きっと隣家のおっさんが庭の芝でもせっせと整えているのかもしれない。

呑気な日曜日。

急に耳の横あたりに金属片を当てられたように、ヒヤリとした。さっきのモータ音も幾ぶんか近くなったような気がした。気のせいかもしれない。

冷たい金属片が耳の横にグッと押さえつけられ昇竜拳のような勢いで垂直に突き抜ける感覚が皮膚を通して伝わった。これは多分気のせいじゃない。

肩の上に柔らかな感覚があった。黒い塊に見えるそれらは、ふわっと空気を含んでいるように見える。

妻の「ごめん調子に乗った」と言う声が、幾分かのラグを伴い、耳に届いたのは多分気のせいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

2・27

昨日は茜霧島をちるちる飲んで寝たので寝付きが明らかに悪かったような気がする。少し体調が優れないし頭もボーとしている。言うほど悪くないが。天気がいいので、自転車に乗りたいような気もする。何も考えずにUber eatsをしたいというのがまずある。チップなるをもらったのが個人的に嬉しすぎた。下唇に輪っかがついてるタイプのロックテイストな女だった。

78円であそこまで人間のドーパミン的な神経伝達物質を分泌させらることが可能な行為に、わたしは無限の可能性とは言い過ぎだけれど、わたしがやりたいことはそういうことだ。とてもメタ的には。

 


ようやく我が家の味噌作りが昨晩に再開された。一リットルの水の中に大豆をひたひたになるくらいまでやっておく。

味噌作りとドーパミンは全くの関係ない。関係ないとわざわざわたしが述べるのは、味噌作りとドーパミンが関係すると考えそうなフラグが立ったからだろうが、そんなフラグをわたしは立ていないし、多分勝手に立ってすらいない。

最近は神経伝達物質のご機嫌を伺うことが日課になってしまった。

昔わたしが小学生の頃、担任の教師が花壇にカップ麺の残汁をよく捨てていたのをふと思い出したが、あれの行為の意味はよくわからないし、当の本人もよくわかっていないようだった。

何かの神経伝達物質がドゥブドゥブ出ていたのかもしれない。それはたしかではないけれど。

わたしにとって太陽とか運動とかは神経伝達物質を分泌させるための装置でしかないということが、ここ一週間ほど起こりうる。そういうことを考えると、本能的何かのパンドラを開けた気分に浸った動物になったような、よくわからない。

 


今日の午後はお嫁様と仲睦まじくエンジンオイルの交換を、のほほんしようと思う。

なんか車の下から入ってパンをとって作業をするらしいのだが、車の下敷きにならないように気をつけなければならない。下敷きになった瞬間にめちゃくちゃドーパミンが出るかもしれないけど、それはあまり食卓に出す絵としては良くはない気がする。

もちろんそれを誰の食卓に出す予定は全くないけれど。

二・二六

卵焼きとオムレツとフリッタータに関して、これらの認識を今朝から改められた。

オムレツと我らがジャパニーズ卵焼きは中身が半熟か否かでおおきく線が引かれる。オムレツは強火で一気に刹那的に焼いて完成する。そうすると中がいい感じにトロトロになってくれる。

短距離選手の彼は100メートルを全力でガチで一本だけ走る。これはフレンチ流かもしれない。わからないけれど。闇雲にひたすらやるでなく一本にすべてをかける。

一方、卵焼きといえば焼き加減こそオムレツに近しいが、一層一層に強火力な刹那焼きを繰り返す。よって基本、中には火が完全に通る。

彼らは100メートル走を10本くらいガチで走る。段々と疲労してきてタイムは落ちるが、それは根性が座っていないからと原因分析して己を極限まで追い込むジャパニーズスタイル、かもわからん。

そしてイタリア出身のフリッタータなるの登場であるが、彼の存在はわたしの卵料理的因果の中に、ある種の革命を起こしたとと思う。

彼は100メートルを走ることをやめてしまった。ディオ・ブランドーが人間をやめるように。タイマーが時を刻み始めても彼は悠々自適に歩を進める。

位置について用意!まではやってやってもまあいいすけどぉ?、全力で走るとか正直、オシャレくなくないすか?

とにもかくにも、フリッタータは5分間蓋を閉めて、中火でしっかり加熱する。既成概念を破壊してくれた。あんたはすげえ。ありがとう。この事実は痛烈な刺激をわたしに与えたと思う。

 


このままだとフリッタータ先輩に完全に気を乗っ取られたまま1日を浪費するということも起こりうるので、何かせねばならない。

一つは本当に下らない誰のためにもなるかわからない二、三日でできそうな暇人大学生がつくりがちなアプリを構想したので、お嫁様とそれを形にしていく暇つぶしをしよう。(fortranしか満足にできない人が発した言葉です)これこそが浪費と人類は呼ぶだろう。

もう一つ、副業応募先の社長から体調が優れないから面接とかもうちょい待ってくんね?とメールが来ていたので、そろそろ日時くらいは決めなければなるまい。こういう基本的なコミュニケーションが苦手なわたしは意識して取り組む必要性が多分ある。二日連続で体調不良だと言っていたのと、毎回送信時が明朝4時なのは気になるところではあるけれど。Simulinkも少し触らねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2・25

昨日のUber eatsにやられた四肢を引きづりながらわたしは布団から生え出たけれど、お嫁様は隣で愉快なBGMを喉で打ち鳴らしておられる。この独唱を現世の語で表現するのは困難だが、がぅあうふぇうえー、みたいな感じかも。

8時半。プチ寝坊だ。

昨日は太腿が断裂する痛みに耐えつつかつピザハットの電動チャリに跨るオバチャン2人と激闘を繰り広げて満身創痍、名古屋から6時過ぎに帰宅した。

わたしは冷蔵庫の中身を割りかしスッキリさせたらスシローに行くという条約を締結していたのもあって、我々夫婦一行はスキップで田んぼの中央にあるスシローに急行した。

我々夫婦は4000円分食べてかなり腹がいっぱいになった。各界隈の凄腕シェフが放つ変化球的なネタには新しい物好きのお嫁様は基本目がない。いつもこの手の店に来るとこの4000の数字に落ち着くので我々のキャパは概ねそんなもんなのだろう。わたしがUber eatsなるで10ー18時で太腿爆弾を抱えながら名古屋で生み出したそれが2000円だったので、我々夫婦1人分のスシローに還元された訳だけれど。

そんなことより、久しぶりの肉体疲労は控えめにいって最高でしかない。気分障害によるなんたる垂れ歪んだように見えるそれよりも、ただ手足を動かしたくないとかそういう欲望は比較的真っ当だとわたしには感じられた。

 


本日のわたしがするべきことといえば味噌作りに他らならいのだが、大豆を昨晩のうちに一リットルの水に浸す必要があるらしく、満身創痍だったわたしは寝落ちしてしまったので、何だが幸先が悪いことこの上なく、やる気が一向に起こらない。

しかも味噌作りキットの説明書に目を通すと、発酵期間は六ヶ月とかできれば正直っすけど一年ぐらいオナシャス!!くらいのテンションで書かれているのでそんな大事業なのかと尻込みした。

 


昼になった頃に我々夫婦の喧嘩は勃発した。アスパラ卵とじうどんを作っているときにそれは起こった。

喧嘩というかそういう次元のものでもないけれど。お嫁様が朝からわたしの機嫌がまじで悪いからその理由を尋ねた。わたしは考えたが思い当たる節がなかったので、特にないとわたしが答えると、例の如くになった。最近この手のものが増えたのがやはり理由があるように思うのである。

二ヶ月前ほどにわたしは医者からそこそこ重いというか、決して軽くはない発達障害、なる診断を近所の医師から受けた。お嫁様もわたしもやっぱりそうじゃん!と言って、今までしでかしてきたわたしの行動の原因といて、それがひゅっと代入されて何だか妙に合点た気分になり、阿保夫婦は2人してガッテンボタンを高橋名人並みに連打したことと思う。

その時はとりあえずお薬飲んで欠陥が少しでも無くなるといいねとなってスタートした。薬はというと効いてるような気がするし効いていないような気もするしようわからん、賞味期限天城越え界隈を渡り歩き味の違いをいまいち掴めないレベルの鈍感なわたしがそうなるのは、当然といえば当然である。

一方、薬が効かないのは、効いてる実感がないのはワンチャン自分はそもそも発達障害じゃないんじゃね!?という大ドンデン返しミステリー並みの壮大な希望にかけたが、2割の患者は今のコンサータという薬が効かないから、あなたがその2割のマイノリティなのかもしれないねと医師からちょっと渋くてカッコいいボイスかつ選民思想的なノリで言われたが当のわたしは希望が立たれたような気がして、ちょっとげんなりした。

上記を要約するならば、わたし=発達障害 -①なる等式が客観的に認められたとういうだけの話である。

 


それが夫婦紛争の種火となるのはもう一つの方程式を恣意的にわたしが呼び出す点にある。それは、発達障害=先天的だしどうしようもなくね? -②である。こいつが悪名高い。

この②の式を持ち出すと、わたしにとって不利なわたしの全ての行動、これらが発達障害なるものによって正当化されることになってしまう。

禁止カードだ。控えめにいって強すぎる。お嫁様のあー言えばこういう力を持ってしても、何もできない。サレンダー...と呟くしかない。

だから生まれつきだろうが何だろうが、我々は障害・欠陥なるの大小に関わらず、乗り越えられるものとして扱わなければならない。そう思うニート生活一週間経過した人でした。

 

 

 

 

2・24

目覚めはよろしくない。色々焼き払われる夢だった。昨夜は久々に眠れず4時間はねた。昨日半日以上寝ているわたしとしては、少ない。

 


昨日の副業会社には職務経歴書を提出したが、古代FORTRN人のわたしなぞに興味を持とうはずもないとも思っていたが、今夜面接をしていただけるという運びとなった。古代文明に理解と興味があるのかもしない。

先日の友人らにヘルプを頼んだコンサルの書類選考も完全に音沙汰なしなので、なおのこと収穫だ。

これは恐ろしくも進展で、一企業が病人と仮病人の間の子のようわからんテンション奴と話す時間を作っていただいたのはたいへん光栄である。宛名を山中様とした件も文面から滲み出る申し訳なさがダイレクトに伝わ過ぎた。そこまで謝らなくてはならぬのかとわたしは思ったけれど。

とにもかくにも、わたしは面接においてはできるデータ処理系ビジネスマンを演じる必要が出てくるかもしれない。それを最後まで貫けるかは、その日のいかがの機嫌かもしれないし、仮にそれを最後まで貫いて雇っていただけても無能がひょんなことからボロボロ溢れ落ちてしまう。一度こぼれると袋の穴も大きく開いて収拾がつかなくなる。そういうこともあって短期間黙々と仕事をして唐突に跳ねる(逃げる)というバッタ的なそれが案外、マッチする生存戦略なのかもしれない。

 


といえでも、わたしがまずせねばならぬのは同居人の、もっというならば家族の心配であり、お嫁様のご機嫌をお伺いすること、これに他ならない。妻ファースト推進機構の旗本としてわたしがやることべきこと朝食を作成することにある。

朝食は何にするかについては基本的に昨晩のうちにあらかた練っておく。少なくとも米は前晩のうちに洗って吸水しておくことはせいぜいやっておかないと、期待に沿うことなぞは到底、叶わない。即断、首を落とされてしまうので注意が必要だ。といいつつ早々に昨晩仕込みを忘れたわたしは愚の首席かもしれない。

妻ファーストという思考は何というか、苦渋の末に生まれた、追い詰めらたれた主人公の土壇場での閃きといった類のものではなく、自然とうまく折り合いをつけながらこれまで生き繋いできた日本民族的という方があるいは近しいかもしれない。我が家の姫君はほとんど太平洋プレート的である。

 


朝ごはんはそこそこに作ったとして、なにかしらの進捗を生むために今日も何やらの活動をしなければならない。活力とやらを取り戻すためのやつである。とりあえず運動がてらにUber eatsなるに久々に参戦したいのだが家のまわりではサービスそのものが行われていないので名古屋まで出ていく必要があるということに気づいた。田舎の慢心が過ぎた。

片道30キロ弱名古屋まであるので往復だけでわたしにとってはもうだいぶいい運動なのは間違いないのだけれど。

というのもあってもうやる気がいい具合で萎えてきたところに、インターホンが鳴った。昨日に頼んだスマホルダーが届いた。スマホルダーというらしい。あのチャリンコにつけるスマホマウントを。スマホ・ホルダーでなく。わたしが見た限りの彼らは多分そう発語していたと思う。そこはかなり注意深く聞いていたので。

2・23

昨日は19時半に頭がおかしくなって寝倒れたてしまった山本さんは、本日は8時に起床。疲労感はゼロだが、無限に眠ることができる。

二日酔いのような気怠すぎる感覚はつらくないといえば嘘になるが、正直慣れてきしまった。

 


御起床の姫君に昨晩は即刻、床に伏したことについての謝罪会見を開いてから、やはり昨日一日中変なようわからん説法みたいな読書をしちょるから頭がおかしくなるんであって、やめたほうがよかよ?と、誠にクリティカルなエセ関西弁でアドバイスを頂いた。至極、そのとおりである。頭を使うことに普段から慣れていない人間が知的っぽいことを急にやり始めたって狂うだけだよと。身体を動かしなさいと、彼女は言う。打ちっぱなしでもいいから。まじで純粋理性批判を読むんならめっちゃシコってる方が今のあんたの人生は良くなるとも言った。

究極完全体イエスマンのわたしはその通りだと思った。今日は天気も良いし何とかニンの脳内合成も大層捗ることだろうし、三、四年ぶりにウーバーイーツでもしてこようとなった。

その前に風呂でも入ろうと思い立ち湯を貯めた。43度。そこにお嫁様おすすめの入浴剤を、粉々、お骨をヘリから大海に散布するごとく儀礼的にふりかけた。

深く綺麗な青。何ちゃらブルーなんだろうな、なんちゃらエメラルドではないしなんちゃらターコイズ感もない。good sleep と銘打つこの入浴剤は、わたしからウーバーイーツの気力を綺麗に切り取ってくれた。

過去一人暮らしの頃は湯を貯めるなる奇想天外な発想をわたしは持っていなかった。結婚するまではあそこの空間はただのミステリアスな仄暗いデットスペースだった。ミイラかなにかを安置するには最適かとも思ったこともあったが湿度が異常なので即座に却下された。そもそもミイラの製法をわたしなぞが知るわけがないし、ふしぎ発見エジプト編で目にした程度のアンポンタンでは到底不可能だし、そもそものミイラ対象もよくわからない。

 


とりあえず副業の応募の返答がきていたので、本日はそれを返すくらいのことは最低限しないと何の進捗もないことになる。まあそれでもいいのだけれど。家の中での面目が保たれない。でも保つための面目がそもそもない。使い回しの職務経歴書を右上の日付だけ訂正して出すということをわたしは不毛にも繰り返している。

そのメールとやらが明朝4時半にきていたのでそりゃ自動送信かと思ったが、宛名が山中様になっている。わたしを山中伸弥富士五湖と勘違いしたか?応募フォームに山中と誤記した記憶はなかった。その凡ミスの可能性は十分に考えられたのだが。

ただこのデータ解析案件がpython必須だったのでその点で脈なしであることはほぼほぼ確定気味である。というのもわたしはこれまで愛用してきたツールといえば遡ること飛鳥時代fortranであって、実務レベルでpythonなんぞ使ったこともない。

とにかく休職中なるわたしにとって、気に病むのは毒である。仏様のようなお嫁様も座椅子に深々、その御腰をいたわりながらにっこりと、あまり貴方の小脳で考えなさるな、とおっしゃってくれた。

御言葉をいただいたわたしは丹念に彼女の肩背を揉み込んだ。

2・22

パン屋と本屋がまったく違うというのがわたしの見解だ。

パン屋ではパンを買うことができ、本屋では本を買うことができる。すこしわらってしまうが。当たり前だよ、と。そんなものは、捻りすぎてしけてしまった警句にすらならない。

だから、このことに関してはわたしの口から若干の説明を必要とすることは、確かである。

 

わたしがパン屋に入る、そうすると中からバターが香ってきてちょうどそれに導かれたような格好になる。

棚の盆にはコロネやパンオレザンやカレーパンや何やらが整然としている。わたしは昼なので三つか二つほど食べようと思う、ようは食べることができる量のこれは有限である。

その制約のもとで、後ろに前にバレリーナのようにクルクル回りながら塩あんぱんも気分だが、もう甘い系統は一つ選んだし...といった具合にめくるめく心地の良い選択肢に酔いしれるのだった。

一方で本屋というと、そうは問屋が卸さない。まず店に入ると今月のイチオシのようなものが並び、雑誌類の棚や小説の類の棚、学術書に新書のコーナーに写真本のエリアも、もう色々目白押しで、わたし気分はというと伊豆行きフェリーでの吐き気を想起させるものと、それでもそれらへの好奇心が複雑に絡み合って生み出される心地悪さがある。

そうして気付いたら哲学書の棚の前に立っているということが、よく起こる。

哲学書の棚の前までくれば、ほぼパン屋と状況は等しいものと考えて差し支えるない。

うわあわぁ!!方法序説も読みてぇな!デカルトは2000年位の歴史全部かなぐり捨てて何か突発的にカオスなこと言い始めたしそれもあって方法序説もざっくりでも挫折しない範囲で目を通したいしー、セネカのローマ人っぽい皮肉まみれのスパイス効いた人生哲学も爆笑もんだろうしなー、といった具合に心地がよい。パン屋的に感性をくすぐられる、最高すぐる。

 

パン屋から本屋に、そして世界やインターネットにまでそれを拡張しようとすると、わたしの頭はもう演算を停止し、それこそ思考停止に陥るかもしれない。

TwitterYouTubeも、これらを前にすると、わたしの感性はOverflowを起こしてあぱぱばへぱと言外擬音を発しながら泡を吹き卒倒、情報量の洪水にさらわれてしまう。

わたしの場合、発達障害持ちで極端に無能であるがためこれらに弱く、心地よいと感じる情報量のストライクゾーンも狭い。が、

ただいくらわたしが無能といったところで人類の多くが有能であるとは限らず、益々加速するこれら対応していけるのか、果たして発狂しないでいられるか?は、一向にわからないように思う。

 

人間関係というものは、よくわからんものである。

特に夫婦関係というものは、当たり前だが職場のそれとは全く異にする。

夫婦の間では作用しないが、職場では作用するちからがある。それは敢えて表現するまでもないものかと、思われる。

そういう力がこと夫婦間の間で働かないがために、両者の気分の波は剥き出しになっていて、常にぶつかりあう、そういった状況が常態である。

難しいのが、その気分の波の周波数だったり大きさだったりが非定常でぐにゃぐにゃの関数みたくなるので、もう正弦波とかそんな整ったものでは到底なく、深海から海面を仰ぐほどの絶望を覚えるのみである。

あほが、人間関係に悩むのはひとつに無謀なことである。大した出力など出ようもなく、ただただ堂々巡りの円環の彼方で宇宙遊泳するのみである。

一刻も早くやめるべきだが、どうにもやめられないという、哀しき憐れであり、悲しい運命なのかも、な。