詰襟んご

ぼくはいつもぼくのために、飯田橋で下車をした。
もちろん、この駅で降りることを本八幡から乗車した時点で、ぼくは先々を見越して、先頭の車両に乗った。
本来ながら、先々を見通すことが苦手だ。
苦手でなければ、もうこんな暗闇なわけはないのだから。
いや、ぼくはいつも望んでこれをやっているのだという自負は一応ある。
何たるが自分のためになるか?何ゆえが己の気分を高揚させるのか。
そういったかしこをぼくは隅々まで知っていたように思う。
どっかの有象一味の精神科医がいっていたが、人間には1日のなかでも気分の乱高下があるし、それとうまい具合に折り合いを合わせな、ならん、やら。
んなことは、わかってるんじゃい。
とぼくはツッコみを入れた。ツッコみってこんなんだったか?わすれた。
ぼくは學蘭の上着の袖口に手をひっこめる。Samsung。寒すぎる。
改札を抜けようする。どれだけ総武線に揺られたのかを思った。
何度となく折り返したかと思ったがそれもいつものことなのでとくに深く考える必要もない。
ただ、三鷹は終点であるし千葉も終点であった。
点。
永遠にたどり着くことはない学舎。
点と点。さっきまでのぼくは点と点を明らかに行き来していたし、それ以上の意味を持たないという気がする。
その間が、すっぽり失われていた。
それは、修復不可能のように思えた。
海の中にぶち撒けた1ピースは深海に沈むことなく表層の奔流に身を預けて動きを止むことはなく各地を廻だろうか。
それならば、このアイダなるも、どこにもなくどこにでもあるような、そんな感覚に取って変わることもできるはずだ。
そんなこんなに渦巻く夜景に、勇みよく街に繰り出したぼくは、すぐに足を止めるはめるになった。
それは、目の前に妻がいたからに違いないのだが。
そう、違いないのだ、が。
その瞬間、矩形のように這い上がった時間的刹那を見た。
現在形にありながら遠い未来にいるぼくは、あれを妻であると認識できる。
認識できてしまうので、この詰襟がぼくの首をじっとり締め上げるのは、そういうことだろうか。
あるいは、あれは全く関係ない人物なのかもしれない。
でもそのツッコミはすぐさま退けられるのも当然だ。
すくなくともあれを妻かもしれないと心の内で思ったのだから、ぼくはその瞬間から遠いところにあるのだろう気がする。
したらば、この妻は高校生のぼくが描く青春群像劇の極地の理想郷、その女の子が目の前の妻であって、先程まで千葉と三鷹を不連続に移動していた意味でのぼくの、妄想であろうか。

また一つ、点と点、そのアイダが消えていくように、思うのだけれど。
でも、同時にありはするのだよね