20代最期の日

秋の風、清々しい朝、心地よい日差しに。

外で起こっているこれらはきっと本当のことだろうが、実際のところ自信がない。しっかりと私自身が見聞きし、感じたことではないのだから。今日一度たりとも窓から外を見ていない。さも、自分が実際に体験したことのように語っているものの、これは希望的なものを投影しただけなのかもしれない。

今日で20代が終わると思うと、何か一抹の不安のようなものを感じなくもないが、冷静になれば特段、何かがガラリと変わるということはない。当たり前である。が、この当たり前を傍では、理性では理解しつつも、「何かが終わる」という漠とした感覚を持ち続けるというのが、私には不思議でたまらない。事象としては、十進表記の最上位の位が一つ数字が増えただけだし、そもそも人間の歳の取り方というは、時間的に一様であるのだから。

そうはいいつつも、この漠然とした感覚を置いてけぼりにして、年齢が増えるということ、30代に突入するということ、について無関心を装い、ナンセンスと糾弾し、そんなものとは戯れませんという小馬鹿にした態度は何だかノリの悪い人間であるような気もしなくもないので、なにか喋っておこうと思ったのである。

とはいっても、自分には喋るべき何事もないことに気づく。自分には語るべきことがない。年齢というものは、世間的な意味において、こうであるべきが沢山詰まったアソートパックのようなもので、わたしは多分、その世間的なべきと少なくとも一回たりとも向き合うことがなく、責任に対峙することなく上手く関係も築けなかった、気づけば逆に責任の側に振り回されて、今、貴重な20代を終えようとしている。

私たちが20代で果たさねばならないこと、そんなものは存在しない、と私は未だにそう言いたいし、そう願いたい。それは、確かに過ぎ去りつつある20代をなんとか肯定するための自分なりの無様であるが最期の悪足掻きなのかもしれないし、一方で、世俗的なべきから自由になりたい、解放されたい一心の願いなのかもしれない。

敢えて反省するならば、自分に足りなかったものは、「べきの生成」とでも言おうか。あぶくのように湧き立つべきに片っ端から対応するだけでなく、積極的なべきを創造していく態度が必要なのではないか、そうすれば責任との関わり合いも変化してくるはずである。生々しく具体的に書くならば、身近なところでは、それは他者に仕事を振るというようなことかもしれないし、周囲を巻き込んでいくことかもしれない。それらは、少なくとも自分以外が関わる営みである。

そう考えると、まさに今、私はそう意味で、この病室で試されているような心持ちになるのだ。娘と二人きりのこの簡素で清潔な病室で。私は、娘の体調は良くなると心の奥底で楽観しているが、本当の今できる最善という意味でのべきは何処にあるのだろう。

少なくとも、ひとつ言えることは、20代の走馬灯的感傷に耽ってる場合ではないということだろうか。

さらにひとつ言えることは、私達は最期を自覚すると試練をそこに見出すのではないか?