22時。らーめんやのカウンターに座る。いりゃしゃああああいませぇぇいぃ。あの声質。ご注文はいかがでぇすか?。はい。黒とんこつで。わたしは常連っぽく(らーめん)を省略してみる。うぃーす。黒とんこつ入りますぅぅううう。なんか上機嫌。
生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥動物であり......
「人間は過剰な意味を持ち過ぎてしまった存在」であることを、今わたしの手元の本は主張している。動物である蛇はカエルをみると捕食行動に入るが、人間にはそういった単純明快なプログラムが複数に連なっているのではなくて、そもそもそのような仕組みが存在しないし、だからこそ無限の意味を備えた存在であることを、高らかに語る。
鉄鍋を振るいながら、らーめんやの店主は背中越しにカウンターを陣取る酔っ払いの常連に語った。
これだってもんを俺は作りたい。これだってもんを、突き抜けたものを食ってもらいたい。みんな、明らかにもうこれは美味いって思えるものを。
万人受けですか?一人の客が言った。そうじゃねぇよ。そうじゃねぇ。
へいょおおお、私の眼前に黒とんこつが無骨な手で乱暴に置かれたとき、人間が過剰な存在であることに、わたしはむしろ感謝した。そもそも過剰でなければ、らーめんなどできようはずがない。人間に欠陥があり過剰であるから、私はラーメンの悦びを享受することができる。
にも関わらず、社会に対して拒否反応を示すのはいささかご都合主義ではないか?と麺をすすりながら自身にツッコミをいれなければならない。
私は人間の原理的な欠陥を容認しているはずなのに、過剰の火の粉がいざ自分の方に向かってくると慌てふためき逃げだすというムーヴをとるわけである。
それでも人間の過剰さがラーメンに向かう分には私は嬉しい。ただ、ラーメンに向かえば。