漫才1

入場(デデデでンデンでーん)

 

どうもー

どうもー(ほぼ同時)

それではね、ぼちぼちやっていきましょうか

我、そんし、です

ん?ふん?

初めて皆様にお目にかかるので、あびこ(我孫子)風に自己紹介してみちゃいましたァああ

初対面でお前。本名じゃなくてもいいけどせめてもうちょいカスってもいいんじゃないのォ

いえいえ(照れ)

初対面っていったら、こう、菓子折り包んだ紙の手提げ持って、こう、腰から半身を

曲がる

そう!!なんだけどぉ何故に怪我した雰囲気突如土産待ちに纏わせたァ??

最近、整体を人に薦めてます

あっそうなんだ、あのグリグリ押されて痛いんだよね。でも効くってみんな言うよ

痛くはないけど。まぁ僕の通ってるのとこはワイヤレスだからか

は?

うん?仰向けになって寝転んで門みたいな奴がガァーってくるやつ

それ、お前CTの精密検査やないか

そっか

お前最近調子悪あかんか?そのCTは酔って武蔵野線のホーム落ちたとき、肘ぃ庇って後頭部うったんやった流れのやつやな?

そうそう。お前、俺のプライオリティが肘であることちょっと小林可夢偉にしてるよな絶対

イヤイヤ、小林可夢偉を馬鹿にしてるお前の方が明らか罪だぞ。確認するけど、お前が肘庇って頭打った話は、お前が頭打つ前のはなしねん。

お前、何がいいたいん?

いや、なんでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

灰山本健介

頭の中に何も浮かんでこないにも関わらず、わたしは日記を綴り始めてしまったので、もう止まることは多分ないだろう。それはだって言いたいことが沢山あるんだろうから。

そう、本日のお話をしましょう。振り返り。起きる➖家を出る➖仕事にいく➖帰宅する、これがわたくし山本健介の1日のアウトラインなのだけれど、こんなにもつまらない1日の切り抜き方をしているようじゃ日記家を名乗れたものではない、したがって

立つ➖歩く➖歩く➖座る➖立つ➖・・として当、山本健介の1日を解体してみることにしてみたがどうもヒアルロン酸の通販番組を免れないわけなので、私はやはり、起きる➖家を出るに舞い戻って、これが山本健介の1日です!!!!と半ば開き直る選択をすることに致しました。そして、私はなんと健やかな名をもっているんだ!

以上。おやすみなさい。

 

といっても上記のような不甲斐ない日記を書いているようじゃあ日記家を名乗れたもんじゃない。名乗ったことはないけれどもう10年くらい続けてるlifeworkなのだからそれぐらいの野心があっても、悪くないだろう、むしろ健康だ、健やかだ、俺だ、と言いたいところだがこれは野心なのか...そもそも日記家とはなんぞやというツッコミを、私はしたくはない。

妻にこの間、娘がもうすこし大きくなったらこの日記を読み聞かせするのか?と聞かれたことがある。結論から言うなれば、私が灰ならば、よい。灰ならば、である。つまり生きているうちは、厳しい。自分のことをマトモでな部類でないという結論を勝手に決めるのは何かむず痒いが、こんな戯言を自分が寝静まった後にnoteでもTwitterでもないインターネットの片隅でコソコソと書いている30歳が真っ当かと言われれば、わたしは自信がない。

ただ、この自信のなさと謙虚さは、私の真っ当さ加減を逆に示すものである。はは。娘よ、おまえがこの日記を読むとしたら山本健介が灰になってからだが、な。

そういえば、今朝、グラファイトのお雑煮を食わされる夢を見た。あれはなんだったんだ。

 

 

KIWAMIサウナ 日報

本日は、名古屋の極みサウナに伺いました。


平日も常時今日の予約でソワソワしており頭がいっぱい。仕事なんぞに手がつくはずは到底ありません。名物の水深2m水風呂へのダイブを妄想しつつ、上司の声がだんだんの近くなるのを感じた。山本クン?聞こえてる?はい、大分きこえておりませんでしたぁ。

古民家をリノベーションした施設内に入ると気さくなスタッフの方が迎えてくれた。お初の方はLINEの友達追加をして動画をみてくれとのこと。動画を再生するも爆音で音が流れてなんだか気恥ずかしい。
ロッカーキーを受け取ると、受付の斜向かいの一段上がったところに、入り口からの秋風に煽られる暖簾がみえた。バリアフリーとは程遠いかもしれないが、この玄関が何かまったく知らない別の世界につながる、孔のように感じた。

靴を脱いで暖簾をくぐると脱衣所の空間が早くも広がる。靴をしまおうとすると玄関の近くに靴棚はなくて、恐らく、各自に割り当てられたロッカーに靴を仕舞うシステムであることに遅れ忍ばせながら気づいたこの鈍感人は、あっ自分の所作は完全に初来店ムーブだなぁとメタ認知しつつも、それを一蹴。これからやって来る週末の極みマジックに心を踊らせながら力強くロッカーに歩みよった。

後から別のお客さんも来たようで、わたしはこの方々とロッカーが隣合わないか、一抹の不安を覚え始めた。しかし、不安は現実のものとなるのは、一瞬だった。わたしは申し訳なさそうにロッカーの扉の角度を60度くらいに絞りつつ、そそくさと服を脱いだ。

脱衣所のとなりの空間には、シャワー室が6つほど鎮座していた。ガラス張りのシャワー室。入るとわたしはシャワーを左手に持ってプッシュしたが、頭の真上から冷水が急に降ってきてきゃっとかわいい声をあげてしまった。自分の思ったところから思ったものが出てこなかった。手持ちのシャワーヘッドからは一滴たりとも水は落ちていない。よくみると、真上に備え付けの別のシャワーが取り付けてあり、そちらから水がでてきたようだ。よくよくみると、プッシュボタンも二つあった。思ってもないところで冷や水を浴びたわたしは全身に鳥肌がたちぶるぶるしたが、また不注意をやってしまった。さすがドジっ子adhdである。

サウナ室に入るとなんとも言えないアロマの香りが鼻腔の奥を刺激した。正確に、これこれの香りだ!と名称を言い当てるのは到底無理だが、森林浴をしているような気分を味わえる香りだ。と思う。扉の正面にはサウナストーンがひしめきあってそこに無骨に存在してる。無機質なそれらを取り囲む、温もりを感じさせるあの白みの効いた木々がその空間に張り巡らされていた。床の簀子を踏むと新しい施設なのか、軋む音はない。自分はあの音がなぜか好きなので少し残念に思った。わたしはまずサウナ室にお邪魔すると、さっそくセルフロウリュをやってみた。初体験である。これは後から知ったのだが、皆、セルフロウリュをするときは、サウナ室にいる人間に「いいですか?」「いいですか?」と簡単に1人ずつ聞いて回るというこれまた丁重な文化があるということを知った。わたしがこの文化を知ったときには、新幹線の座席を後ろに倒すときに、後ろの人に声をかけるか問題が脳裏にちらついたが、今回の話はその新幹線問題とは根本的に異なることに気づく。

セルフロウリュウの場合は、もちろん部屋に蒸気が回るので一気に体感温度が上がる。基本的に多くの客はこの体感温度の上昇を求めており(わたしはそう思っているがどうなのだろう?)セルフロウリュウをした人間に対して、わざわざ席を立って水を撒いてくれたことに感謝をするくらいの人間がいても、なお、おかしくないのだ。

それでも、ロウリュウを連発するだけがサウナではない。というマジョリティではない思想をもった人間への配慮が、この文化がある所以ではないかとわたしは感じた。この業界について無知だが、そうした所作やルールが、このアクティビティに対する楽しみ方の多様性を示していることに気付かされるのであった。

アジフライ食べました。

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金曜日の歌

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金曜日に表現はいらない。金曜日はそれだけですでに完成しているのだから。金曜日に駄文も名文も見栄も何もいらない。全ての金曜日以外は金曜日のために存在している。豪勢にしてかつ孤高でもある。金曜日は出っ歯である。金曜日は永遠ではないが永遠でないからこそ、金曜日である。金曜は有限である。

お前は金曜日のために仕事をしてるのかと問われれば、わたしはそうですと答えるだろう。

お前は世の中のために仕事してないのかと問われれば、わたしは金曜日のためですと答えるだろう。

お前は何のために存在しているのかと問われれば、わたしは金曜のためですと答えるだろう。

お前の人生そんなんで悲しくないかと問われれば、わたしは雨が降ってきたので軒先に駆け込んだとだけ言うだろう。

あぁ金曜日。金曜日。華金などでは語り尽くせない。華金などでは、足りないくらいわたしはこの時間に存在のすべてをかけていたい。あぁ金曜日。毎日金曜であればいいのに。その仕方では金曜日はもうすでに金曜日ではないのだから、そんな馬鹿なことは思っちゃいけない。それでもこの世に論理のようなものがなければ、いいのになと思うが、論理がなければ毎日金曜になるものの、それでは金曜を堪能できない。あぁせっかく毎日金曜日になったのに。

サウナ能

ここ10年弱ほど世間を大いに賑わせているサウナに行き、先週、例の整うという新たな感覚に出逢った。


ほどなくしてわたしはメモをとった。所詮はいつもの酔っ払いのたわごと。なにか考えのようなものが浮かんだような、浮かばぬような?釈然としない心持ち。興奮が冷めやらぬうちに帰宅したわたし。サウナというものを日本の伝統芸能である能となぜかリンクさせながら、その日を振り返っていた。

サウナ、ここでは「整う」を頂点としたそれに向かう一連の行為、そしてさらにはその一連を繰り返すことは、この世とあの世を行き来することになぞらえることができる。それは、すなわち能ではないか?とわたしは直感した。能でしかないのだ。
能は死すべき存在、あの世にいるべき幽霊が現世にやってくる(またはそもそも居座りついている?)も、生前の未練や絢爛を、可憐で、ときには悲壮に満ちた舞に託して表現した後、元の世界(あの世)に帰るというものである。おそらくは、その幽霊は旅人が現れるたびに、そこに出現し、その想いのたけを伝え表現することを無限にこれからも繰り返すのだろう。お疲れ様である。
整っても、なおも整い足りないというサウナーたちと幽霊。この世とあの世を往来する同志である。

我々はサ室で死に、さらには水風呂で死に、結局は外浴で蘇生する
2度死に至ったわたしたち。具体的には熱々の窯に焚かれて氷漬けにされたわたしたち。氷漬けにされることにすら順応した身体は、このあと何を求めるのか、ヨタヨタと歩き彷徨う。思考はそこには無い。思考は人間の条件ではなかったのか?それはそうかもしれないが、死んでいるのだからもう考えには及ばない。首が無くなったデイダラボッチのように、身体が本能的になにかを求めているようでもある。
それはなにか、密閉空間にないもの、それこそ、「お外」でしかなのだ。我々が渇望するものはありふれた外気である。

あとは帰るだけである。もとの世界へと。
舞や外浴はこの世とあの世の橋渡しである。能の世界の死者にとっては、あの世こそが帰るべき場所であり、また、サウナーにとっては目を瞑りたくなるような上司のいる現世こそ、愛すべき妻がいる世界こそ、帰るべき世界なのである。

ぼけっとする

ゆるされたい、という思いがかなりあるということを知った。ゆるされたい。この気分は、承認や肯定という強いものとは異なり、もっとゆるくて大らかな雰囲気をまといつつも、何か自分を強く規制しているものであると思う。

でも、わたしたちは誰に許しを乞えばいいのだろうか?妻か?子か?むかしからの友達か?会社の同期か?先輩か?上司か?或いは、こういう話になると、目に見えないもの、神様のような絶対的なものをイメージするかもしれない。

でも、そんなことは些細なことかもしれない。そもそも、何か悪いことでもしたのだろうか?失礼なことを人に言ったのか?いや、明確に悪いことをした記憶もないし、された覚えもない、それどころか、どちらかというと、わたしは人を避けるように生きているではないか。雲のように、目に見えるけれど遠くのところに在りつづけるそんな佇まいをしつつも、何をゆるされたいのだろうか。

何も考えないでぼけっと宙を見つめるうちに、人は眠りに堕ちる。それがゆるされないのは、なぜだろう。ひとの時間が有限で、わたしたちはいつ死ぬかも分からないからだろうか。日曜のよるに死すら感じる。有限というのは、なにも時間にかぎったことではない。期間限定、初回特典、数量限定そういったものは人の購買意欲を焦らせる、ぼけっとしてた人の目を覚まさせる。

わたしはもう、ぼけっとできなくなる。

わたしたちはただ座って虚空を見つめていることは不可能なのはなぜだろう。それは、椅子に座った身体が余っているから、身体が勿体無いのだ。でも、せっかくあるものを使わないというのは、おかしなことだろうか?気の利く店員がポテトにケチャップを付けてくれたとして、使わないこともままあるではなかろうか。

ただ、身体がケチャップと比較して、魅力的すぎるコンテンツであるという見方はできると思う。ケチャップも魅力的ではあるが。そう考えると、身体は魅力的だし不思議に満ちている。この間、サウナに行きはじめて例のととのうという感覚に出逢ったが、あんなに気分が良くなることはないという程に感動があった。快。

何も閉めることばがないが、今日は寝ようと思う。

からあげクン藤井聡太味

イートインスペースが外にあるこのパン屋。平日昼からマダムたちがここで、うちの子の英語力がどうだとか、うるおぼえのふるさと納税についての知識を披露したりだとか、旦那がマジで家事しないだとか。そういったマダムたちの戯れが執り行われる会場になっている。

 

ー今日はメロンパンにしたけど。

ーーなんでメロンパンにしたんだけっけ?

ーなんでって、昨日がカレーパンだったからかな?

ーーん?それって、全然説明になってなくない?

ーそうなの?昨日カレーパンだったから、今日メロンパンなんだよ?

ーーそれってイメージ、干支?

ーなにそれ、ウケる

ーーウケるって、あんたの話してるんだけど。鼠の次って牛って決まってるでしょ。それと同じでカレーパンの後ろがメロンパンなのかなっていう推測。

ーそうね。概ね合ってるとおもう。でもイレギュラーがなくてつまらないよね。

ーーイ・レギュラーを求めてるの?

ーなにそれ韓流?求めてないけど、求めてないというと嘘になるかも

ーーじゃあちょっとは求めてるんだね。牛牛牛は?

ーそれはやりすぎかな。今年の牛次第では、来年も牛でいいかもってのはあるとおもうけど。さすがに牛ばっかだと飽きるから、やっぱ虎とか辰とかきてほしいね

ーーうーん。とにかく、あんたは去年がどっだったとか昨日何パン食べたか、とかがその日の選択に関わってくるんだね。

ーそうだよ。でも飽きとかあるし、普通じゃない?それって。

ーー純粋に好きなものを食べればいい気がするのだけど

ーどういう意味?

ーーいや、今のアンタの話を聞いてると、アンタは気分とか、飽きとかでコロコロ食べるものが移ろうって話だと思うんだけど、実際のアンタの気分ってそんなに変わるのかなって思うんだよね。好きなものってそんな突然変わらんと思うんだよね。その、アンタのその日の気分のブレぶれとやらで、メロンパンかカレーパンか?という天秤のふれ方するのか?と思うのよ。

ーうーん

ーーアンタは選択そのものに飽きているだけなんじゃないか。

ー選択そのもの?

ーーメロンパンを毎日食べ続けたとして、メロンパンは好きなんだけど、今日もメロンパンかってなるでしょ?

ーわかる気がする。逆に、それを自覚するときって、自分の選択に、選択そのものの飽きがトリガーなんだよね。あー私メロンパンばっかり気付いたら最近食べてる、みたいに感じるよね。同時にメロンパンわたし好きだなって思い知らされるわけ。

ーー選択ってのは、人間がやる判断のひとつだよね?

ー判断も沢山あるもんね。ふるさと納税も結局どこの返礼品にするか、なんも決めてないや..

ーー私たちは判断に覆われている。判断が迫られると簡単なものはその場で即決できるけど、中身がよく分からないものは後回しにしたり、そういうこともする。

ーいや、そんな大真面目に考えなくてもさぁ。メロンパンかカレーパンか?の話で言えば、大した話じゃないよね。

ーーいや、それが大した話だと、わたしは個人的に思うんだけど

ーほう。そのこころは?

ーー選択への飽きが駆動し始めるすると、自分を見失ってしまうのよ。

ーなにそれ。

ーー私は、ローソンによく行くんだけどさ。あれが好きなんだよ。からあげ君。で、からあげクンのホットが好きなんだけど。毎回ローソンに行くと、見たこともないどこぞの瀬戸内レモン味とかがしたり顔で鎮座してるわけよ。で、

ーうん

ーーそれは期間限定なんだけど、ここで私の中の[選択への飽き]が駆動するわけ。そう、迂闊にも瀬戸内レモンに心を奪われてしまう。レモンなんか一ミリも興味がないのに。そう、これが人間の弱さ。わたしは毎回無意識にからあげクンホットばっか頼んでるけど、確かに私はこれが自信をもって一番好きな味だと自分にガンガン言い聞かせてやるわけ、これでもかってくらい。でも、瀬戸内レモンへの誘惑には敵わない。

ー結局、瀬戸内レモン買ったの?

ーー買ってしまった。でもかわからんけど、首の皮一枚繋がってホットも買った。

ー二つ買ったの、お馬鹿さん。

ーーでも、私は消費者としては企業にとっていいお客さんだったけど、自分の本性に忠実にいることにはギリギリの寸前のところで踏みとどまったわけよ。

ーあんたはそういうとこ馬鹿だけどさ。何がそこまで自分に忠実でいたいと思わせるんだろうね。アンタのいう[選択への飽き]への駆動とかいうのと必死になって戦ってボロボロになっていい歳したおばさんがお腹も空いてないのにからあげクン二つ買ってまでして、護ったものって、なんなの?期間限定の誘惑に負けて、瀬戸内レモン味だけ食べたって可能性を広げることにはならない?

ーー可能性?そんなものないよ。瀬戸内レモン味は、食べなくても分かるよ。味が。想像できる。確実にホットはうまわってこないことぐらい。わたしは藤井聡太みたいに90手先は読めないけど。瀬戸内レモンの味は読めるわけ。食べなくても。

ーじゃあさ、からあげクン藤井聡太味ならどうなの?

ーーなにそれ。それはわからない。どんな味なんだろう。その場合、もはや「選択への飽き」のようなネガティブな感情が働くのではなくて、もっと積極的な好奇心がわたし全身を支配するような気がする。からあげクン藤井聡太味については、何も悪いことしてないどころか8冠おめでとうございますの藤井さんには本当に申し訳ない想いでいっぱいですが、ちょっとグロテスクな雰囲気すらするし、ねちょっとしてそう、なんだかね。

ーそうなると、あなたが問題にしてるのは、つまらない選択、についてよね?なんていうか、予測がある程度できてしまうような期間限定商品を形だけの新鮮さだけを動機にして購入してしまうという、という安易な行為そのものに対して、自分を失ったように感じるってことかしら?

ーー藤井聡太味ならば、私は、私の選択をしたという気分になるかもしれない。あなたがいう新鮮さだけに飛びついた鴨では少なくともない。少なくとも、自分を失ってはいないと思う。そう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エディオンコンプレックス

接客のやる気がないエディオン(愛知県の電気屋)ほど腐敗臭が籠る場所はあるまい。エスカレーターをのぼりフロアに降り立つ。店員の脇を通り店舗中央へと歩みをすすめると新型iPhoneいかがですか〜とか、ガラポンデキマスヨーお子さんとどうですか〜?みたいな生温い勧誘が我々の方にモワッと、湯気のごとくたちのぼりながら纏わりつくものの、それはただちに、即座に消散してしまう。なにか、残念な感じがするのである。

そんなとき、夜の歌舞伎町を思い出す。あの街を通ったことが数回ほどあるが、執拗に付き纏われているという感覚を永遠に覚え続けた。決して振り解けない彼ら彼女らからの逃走。風俗街からの逃走を試みた無一文で真性のわたし。エディオンは逆説的に、あの時代の記憶を呼び覚ます装置でもある。

そう思うと、逆説的に記憶を呼び起こされてしまうこと、これに直面することは我々のなかでもままあることである。

例えば、色々あるとおもう。家の机に半分に欠けた茶碗があるのだが(欠けた断面が養生され金継ぎされることを待っている。実効されるかは不明)、それをまじまじと見ると、夕飯の光景が目に浮かぶ。なんてこともある。

ある意味で、残念なものというものは、本来あるべき機能を失した状態にあるものというべきかもしれないが、このときに逆に失したものが際立つという現象が起こることも、また真ではないか。

というような綺麗事をわたしは申し上げながらも、それならば、現実的な話で、仕事ができない人間もこの世には必要であるというあの甘い言説も、上記のような理論に乗っ取ったことの延長であるように思われる。すなわち、仕事ができない人間がいるから、できる人間がいるというような話である。

でもそれについて、すこし考えてみたが、私の思考は一瞬で停止する。なぜなら、仕事のできない人間というものを、この世で目にした事が一度もない。私の慈愛の精神に満ち溢れた分析によると、最も仕事のできない人間はわたしその人、であるからである。

でも、冷静に考えるとそのように考えるのは無理があるとも、同時に思う。それは、わたしが最も無能な人間で、その逆説の理論の使い手であれば、周囲の人間が有能なのは自分の存在のお陰であると私が思うからに他ならない。

 

エディオンに入店すると歌舞伎町を想起させること(のようなこと)を、「世界と出会い直す」というように、お洒落にパラフレーズされていたのをふと思い出した。それはたしか贈与の話題についてであったが、あの残念なエディオンこそ、ある意味で究極の贈り物なのかもしれない。

 

 

衛生観念すれちがい

「こんばんは。」

「こんばんは。」

「自分で言ってあれだけど、こんばんはっておかしくないですか?」

「なんで、ですか?」

「これを仮に読んだる人間がいたとして、その人からしたら、今が昼だろうと夜だろうとどうだっていいじゃないか。」

「たしかに、、、それは一理ありますね」

「三理は厳しい?」

「なんで突然競りみたいなことするんですか」

「いまので三理あれば、この飲み会のあとタクシーで帰ろうと思ったんだ」

「初乗り無料とかあるんですか」

「いや、ないよ」

「フィクションですか」

「そうだよ、悪いか」

「らーめん山岡家ですら、10枚ですよ。一杯無料まで」

「まぁ三理のはなしはいいよ、そんなことより、水筒に水を入れていって」

「入れていって」

「その水筒を持って帰ってきたら、洗うか?」

「何言ってるんですか?洗いますけど」

「そうそう、おれも正確には洗ってるんだわ。洗ってわぁいるんだよ。でも、口のとこしか洗ってないわ。口は洗うよ、そこから雑菌が繁殖すんだろ?だから洗うよ。でも」

「でも」

「水筒の中は洗わんでええよな?」

「なんでわたしに確認するんですか」

「なんでって、確認してるわけじゃぁないけどさ」

「いや、わたしは意味は分かりますよ。中身が水だが洗う必要ありますかってことですよね?」

「そうそう。」

「そもそも、人に確認するというその行為の意味がわかりませんけど、奥さんにでも聞いてみればいいじゃないですか?」

「それは無理」

「なんでですか?」

「妻は、たぶんあっち側の人間なんだよ」

「その含みは、わたしはあっち側でないと?」

「(黙って頷く)」

 

 

ナース

ナースコール。すなわち、それは、ひとたびそのボタンを押したならばナースが我々の目の前に現れる、そんなシステムだ。

1回押せば1人。2回押せば2人。3回押せば3人。そんな具合でシャンプーのように1プッシュごとに1ナースが現れるのか?そう問うてみると、甚だ、そんなことはないような気がするのである。私が仮にもナースであるならば、2回目以降のコールが続けざまに入ったならばこの人はせっかちなんだなぁとか、とかただ思うかもしれない。そもそも、例えば夜勤帯であればワンオペも考えられるので、何度押そうと1人であろう。

そして、ナースコールは、何かが発生したときに押すものだ、ということだ。何か理由が必要だ。これは裏を返せば何も起こっていない場合は、ナースを呼ぶことはできないということになる。我々は有事の際にナースに助けを求めるのである。ただ、有事の際といっても、街の至る所にナースコールが設置されているわけではないことに注意しなければならない。基本的には、私の知る限りは病室に設置されており、病室からナースを呼ぶことなる。その点では、サイゼリアなどのファミレスと同様であり、レストランの中以外から店員を呼ぶことは、叶わない。

 

今、私はナースについて述べたが、特に有事でもないのに(理由もないのに)、どんな場所からでも何者かを呼べると、そういう状況について、どれほどの意味があるか。

理由もないのにわざわざ遠方にはるばる行く必要は無いように思われるかもしれないが、逆に、ここまで理由が希薄にも関わらず欲されている/欲してるというそれ自体に、その人間そのものへの愛が際立つというか、浮き上がってくるように思う。

私はこのナースをのちに妻と呼んでいる。