鬱なんです

今日はなんとも、ぬれ煎餅に感情移入をしてしまう特殊なモードに入ったおじさんに仕上がっておりまして。

気まぐれ、気分、人間はあれをしたいとか逆にこれをめっちゃしたくないとか、あれなら何とかできるかもしれないとか、日常のなかで色々思う。

この気分や気まぐれという概念は、気分が下がっている状態である人間にしか感知されることはない。気分が普通かそれ以上のときには、これらが問題として表れてくることはない。なぜなら、気にする必要がないのだから。概念が孵化するところに問題はある。

そういう意味で、いきものがかりの「気まぐれロマンティック」なる楽曲は、「ぬれ煎餅」のようなもので、ロマンティックに浸っている上向きの気分の中では決して析出することのない「気分」を捉えようとしたかなり実験的な試みであると言わざるを得ない。本来、ロマンティックの中で気分を確認することに意味はないし、ロマンティックの最中で気まぐれなる言葉の出番はないはずだ。

シェフの気まぐれパスタなるものも、別に陰鬱状態の凄腕料理人が作ったパスタではないであろう。あれは気まぐれたい陽気なシェフがただ作った美味いパスタに他ならない。

私がぬれ煎餅を好きになったのは、いつだったかちゃんとは覚えてはいない。ぬれ煎餅が好きというよりその倒錯的とも言える性格を帯びたその存在に惹かれたのだと思う。(ぬれ煎餅も実際よく食べるようになった。たまにだけど)

煎餅は固くてはならない、という自己のアイデンティティそのものを真っ向から否定しようとした煎餅。

煎餅の種という観点からみると、べつに固いままでずっと通すことができた。煎餅の進化の系譜の中に突如生じた特異点、ぬれ煎餅はそれこそ暗い井戸の底から出てきた「気まぐれ」が創り出した自己矛盾的な存在であり、煎餅界に一石を投じる存在でもある。

ぬれ煎餅が生まれたのは、多分、鬱からであろう。

 

レ点

なにか急にレ点というタイトルで文章を書きたくなった暇すぎるおっさんで恐縮な昨今、レ点に対して想うこととと言えば前の漢字に戻るくらいのイメージしか持ち合わせていない。

咄嗟に喉奥から申し訳ないという言葉が出かかったところですこし頭をひねると、新しい薬局に行くたびに書かされるあのアンケート、同意書、チェックボックスを思いだす。

なんでレ(re)なのかという愚鈍な問いはもはや必要なし。必要なのはレのスマートさ、レの書き味にレの斬れ味。まるで日本刀の刃先のような艶めかしい殺傷力と爽快感....

私にレ点について語らせてたこの「外力」はなんなのだろうか。暇という名のカオスに取り込まれた山本という一人間、私は何か拗らせているように想うのだけれど、少なくとも、試してガッ点の話を開始してしまう前に寝ようと思う。

 

 

らーめんや

22時。らーめんやのカウンターに座る。いりゃしゃああああいませぇぇいぃ。あの声質。ご注文はいかがでぇすか?。はい。黒とんこつで。わたしは常連っぽく(らーめん)を省略してみる。うぃーす。黒とんこつ入りますぅぅううう。なんか上機嫌。

 

生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥動物であり......

 

「人間は過剰な意味を持ち過ぎてしまった存在」であることを、今わたしの手元の本は主張している。動物である蛇はカエルをみると捕食行動に入るが、人間にはそういった単純明快なプログラムが複数に連なっているのではなくて、そもそもそのような仕組みが存在しないし、だからこそ無限の意味を備えた存在であることを、高らかに語る。

 

鉄鍋を振るいながら、らーめんやの店主は背中越しにカウンターを陣取る酔っ払いの常連に語った。

これだってもんを俺は作りたい。これだってもんを、突き抜けたものを食ってもらいたい。みんな、明らかにもうこれは美味いって思えるものを。

万人受けですか?一人の客が言った。そうじゃねぇよ。そうじゃねぇ。

 

へいょおおお、私の眼前に黒とんこつが無骨な手で乱暴に置かれたとき、人間が過剰な存在であることに、わたしはむしろ感謝した。そもそも過剰でなければ、らーめんなどできようはずがない。人間に欠陥があり過剰であるから、私はラーメンの悦びを享受することができる。

にも関わらず、社会に対して拒否反応を示すのはいささかご都合主義ではないか?と麺をすすりながら自身にツッコミをいれなければならない。

私は人間の原理的な欠陥を容認しているはずなのに、過剰の火の粉がいざ自分の方に向かってくると慌てふためき逃げだすというムーヴをとるわけである。

それでも人間の過剰さがラーメンに向かう分には私は嬉しい。ただ、ラーメンに向かえば。

 

 

 

 

貼れないカイロの転職

ドラッグストアの白光のなかで、わたしは貼れないカイロに想いを馳せる。

貼れない

貼れないカイロはいつからこの不名誉な貼れないのレッテルを貼られてしまったのか。そう、貼れないカイロに貼られているのは、烙印であり呪いであるように思う。

いつだか知らないが。この世に歓待されてやってきた貼るタイプのカイロ。彼がたしかに優れたものであることを全人類が認めていることは言うまでもない、が、いわゆる普通のカイロに対して、こいつは身体に貼ることができない無能のように扱われていることに大変に胸を痛める訳である。

でもよくよく考えてみなくても、こんなことで一々カイロに同情している場合ではない。自分より付加価値を持った人間が現れれば、わたしの仕事は徐々に減っていくのは必然だろうし、経歴書にも「営業のできない設計者」というサブタイトルが追加されるかもしれない。

でもたとえば、わたしが転職市場の中で「営業のできない設計者」として、データベースの中に陳列されている様子を想像するとちょっとだけ滑稽で面白い。

愛する妻と娘の幸福ために少しでも自分を売り込まねばならないことは承知するのものの、わたしは貼れないカイロに同情しつつ、同時に貼れないカイロそのものでもあることに、気付かない訳にはいかないのである。

逆にわたしは貼れないカイロであることに気づき過ぎている、気にしている、敏感であり、ノイローゼになっている。転職アドバイザーはわたしの下の歯並びが若干悪いくらいの短所もすべて、遊び心があって余裕な印象を与えるくらいのアドバンテージに変換する錬金術師のような人で、全力でわたしの自己肯定感を上げてくれる偉人である。

転職アドバイザーの彼女なら、ドラッグストアに陳列される貼れないカイロをどんな風に表現するだろうか?

 

ー本日は転職活動に本格的にはじめていただく前に貼れない・カイロさんのこれまでの経歴等を確認させて頂きながら、より貼れないさんにマッチした求人をこちらからご提案させていただければと思います。カウンセリングという形で、ざっくばらんにお話し聞かせていただければ幸いです。よろしくお願いします

ーよろしくお願いします

ーそれでは、さっそくですが貼れないさん今回の転職の動機から伺ってもよろしいでしょうか

ー新しい挑戦と成長の機会を求めることが目的です。また、過去の経験やスキルを活かしつつ、より充実した職場環境や将来のキャリアの展望を追求したいと考えています

ーありがとうございます。最初にスキルについてもう少し詳しくお話しいただけないでしょうか。

ーもちろんです。わたしは一般的に、体温を上げるための保温材を含んだ袋やパッチです。主なスキル/機能は以下の通りです:

1. **発熱効果**: カイロ内の成分が反応して酸化反応を引き起こし、それによって放熱が起こります。これが体温を上げ、周囲の寒さから身体を守ります。小学校や義務教育の現場でもときどき理科の題材としてわたしが使われることがあります。

2. **一時的な温熱療法**: カイロは、急性の筋肉痛や関節痛、寒冷時の手足の冷えなどに対する簡易的な温熱療法として使用されます。

3. **ポータブル性**: カイロは小さくて軽量なため、持ち運びやすく、屋外活動や寒冷地での使用に便利です。

4. **応急処置**: カイロは非常に使いやすいため、急な寒冷地での活動や緊急時に、急な体温の低下に対処するのに役立ちます。

5. **無能**: わたしは貼ることができません

ー簡潔にまとめていただきありがとうございます。ご自身について客観的に見られているように感じましたが、転職活動では自分をよく見せることを意識するといいと思います。こんなことが私はできない!とあたまから宣言する必要はないのです。というより、それはしてはなりません。

なぜなら、あなたはそもそも転職をする動機について、冒頭伺った際には新しい挑戦をするためと意気込んでいたと思います。貼れないさんのネガティブな部分もぜーんぶ含めて受け入れてくれる寛容な会社なんてそうそうありません。もちろん、0とは言いませんが...宇宙航行中に彗星にぶつかるくらいなものです。とにかく、あなたのお名前で失礼ですが、貼れないという言葉を口にしない方がよろしいかと思います。ご自身の貼れないことをもっと前向きに捉えるとしたら、どうしましょうか?

ーわたしの貼れないという事実を前向きに捉えるなら:

1. **柔軟性と応用範囲**: 貼れないカイロは、服やポケットに挟んだり、寝袋内に忍ばせたりすることができ、使用場所に制約が少ない柔軟性があります。

2. **手軽な取り扱い**: カイロを貼る手間がなく、取り外しが簡単なので、手軽に利用できます。

ーなるほど。ありがとうございます。あなた、忍ばすカイロみたいなのに改名したらどうですか?柔軟カイロとか、どこでもカイロとか。貼れないカイロにしかできないこと、沢山あると思うんですよ!

ー忍ばすカイロ....不忍池と寺島しのぶで平均を取って無理やりカイロにしたような感じですので....少ししっくりこないですね。柔軟カイロもなんかタコ感ありますし、どこでもカイロもドラえもんの道具みたいですし.....

 

貼れないカイロはteams通話を切った。転職サイトのアカウントを削除して、それからまた眠った。

 

 

 

サボり

布団の中でモゾモゾしているわたし。かれこれ1時間弱はこうして寝返りをうちながらスマホを片手に握り、わたしの欲しい情報にアクセスする。

 

会社 行きたくない

会社 ADHD  無理

会社 休職

 

Chromeの検索履歴をこれらの文字列が無機的に、冷蔵庫の卵のように陳列されている。

わたしが所望している情報は何なのか?それは至って単純で会社に行かなくても良い理由を、それを発する声を闇雲にただ探すのである。それがネットの有象無象の荒海であろうと構わない。わたしは何か武器を手に入れなければならず、その武器がエクスカリバーであろうが贋作エクスカリパーであろうが、そんなことは気にも止めない。現時点のわたしを救う手立て、手段、楽になる一番の道を肯定してくれるそんな言葉をただひたすらにエナジードリンクのように摂取し続ける。

それから私は自覚する。既に腹は決まっていた。

わたしは1時間弱やっていたことは、自分の決断の妥当性について、それを擁護するような意見をただ欲していただけだった。が、それもそろそろ自覚的になり始めた頃には阿呆らしくなり始めた。何故なら本日会社には行かないことは決定事項であること。しかもわたしは自分の都合の悪い情報は視界に入れないのである。

 

サボりというのは、このような社会的なコンセンサスが必要なのである。これが、皆んなの合意とは異なるもっと捻じ曲がったものであることは勿論否定できない。が、少なくとも私のようなか弱い生命体には必要なことである。

このような異常な執念が働くような状況に、自分が追い込まれていることは問題であろう。

 

 

結婚観

友達が婚活で、色々と悩んでいるようだった。

私はただ結婚したという経歴を持っているがそれ以上のものは持っていない。モテる訳でもないし話が面白いわけでも女好きな訳でもないし結婚願望が強かった訳でもない。

ほれほれ、まともなアドバイスなどできようがない。

そうすると、わたしはただ、成り行き任せで何となく結婚した人間なのか?とおのれに問うと、それは明らかにYESなのでした。結婚なにそれと言う感じに近い。

やばティー的には、ノリで結婚したというやつではある。

結婚といえば、トドのつまりは複数の人間が一箇所に集うことにあると、わたしの辞書には書いてある。

複数のというのは家族のニュアンスを指している。

人間が人間と一緒にいることが、人間らしさであるならば、結婚はその人間らしさに大いに向かう方向ではあると思う。かといって、ひとりでいることが人間らしさに逆行する動きであるかは断言できない。そもそも、そこまでして人間らしさに拘る必要があるかも、正直なところ誰にもわからない。

そもそも家族を作ることが人間らしさの獲得という目的を持ったものである、という発想は捨てた方が懸命かもしれない。

では家族をつくる私たちのモチベーションは何なのか、そう言う時にわたしがいつも思う事は、そんなものは存在しないのではないかということだ。

家族は、モチベーションや目的とはすこし違った層にいるような気がするのだ。

 

偶然。ところで偶然とは、ある意味では運任せの他人任せの極みである。主体性のカケラもないようなことばだが、だからといって偶然を軽んじてはならぬ。

わたしは娘のステータス値を選んでいない。わたしは顔のパーツの配置だとか、こういう仕草をよくするとかそういう一切を選んでいない。にも関わらず、娘の存在は大きなものだ。

目的を持って選択することと、自分のなかでのその存在のおおきさには、あまり関係がないように思う。だから主体性みたいなものを歳を追うごとに信用しなくなった。自分で選んだこと、わたしは自分の選択にいつも酔いしれてしまう。これは何故だろう。自分というものが自分のする選択に宿っているように、そう感じることもない訳ではない。

選択や主体性は自立のようなもの、かっこいい大人を想起させる。偶然や運に身を任せること、力を抜いてなるべく受け身になること、ぼけっと人の話に耳を傾けること、テキトーにひとに流されること、そういう選択の先延ばしが自分の結婚観でもあった。

自分は結婚するのはまだ早い、と思う時期も結構あったのだが、それは、まだ早いというような己の成熟の話しは自己欺瞞で、まだしたくないが本音であって、結婚をする瞬間まで実はそれくらいの先延ばしっぷりを発揮していたように思う。

また、わたしが結婚をそれなりに渋っていたのが、結婚はある意味で、外乱の連続でしかないという側面を認識していたから。全然リオのカーニバルが好きじゃないのに、毎日そこに放り込まれるのがおそらく結婚で、最初はイヤイヤながらも何とか身振り手振りやって(流されて)、で不思議なことに毎日踊ってると、自分も変な格好して満更じゃないような顔をして踊っているというのも、また結婚の一側面であることをわたしは認めなければならない。

結婚は間違いなく、人生(人間)を変えると思う。

 

 

 

 

娘の誕生日 2歳

おとーーしゃんっ!おかさぁん!あっちーーあっちー!!!!

今日は、ほのちゃん何歳なんだっけ?

にー!、にさい!

娘が誇らしげにわたしたちそう言ったのは午前8:00前後。

その時から既に、わたしの胃腸から細い隙間風のような音が鳴っていた。

知ってはいたが、気づかない振り。我が子の成長に満足しながら、欠けたマグカップを口元にはこぶ。

アッー。

幸せの吐息が大気に解放される。この幸せという言葉が、すでに自分の持っている幸せには追従していない。なぜであろうか?それはわたしが真の、本物の幸せに辿り着いたからではない。

むしろ、真の幸せというものがこの世にありふれたものであり、何処にでもあって、何処にもなく、それが自分の目的思考や焦りとは無関係であること。娘を見ているとそういう気分にさせてくれた。

と、陳腐な幸福論を嘯くも、わたしの哀れな胃腸は娘の誕生日にかかわらず何食わぬ顔で火を吹きながら、突然着火。たけり燃え盛り、笑顔の娘、可哀想な父親は布団の中に横になった。

アッー。

わたしの肛門はなにか、締まりの悪い巾着袋のようだ。37.8,38.5。発熱はそんなでもないがコロナ罹患よりもきつい。倦怠という二文字が頭の中を右往左往、倦怠、倦怠、ケンタッキー。無理にケンタッキーに繋げて鬱蒼とした森の中から交通量のある明るみに出たが、3秒後、北米での現行プロジェクトが頭をよぎりそのまま乱暴なタンクローリーの下敷きとなった。

この全身の気怠さを。

天真爛漫なほのちゃんの声がリビングから締め切った寝室に常時漏れてくるが、打ち負かすことができない。

我が娘よ、わたしを胃腸炎の苦しみから救ってくれないか!お前は2歳なのだろう!!2歳であれば。

わたしはなんとなくXをみた。

スマホ依存である。

港区在住ラウンジ嬢が麻布の寿司屋で大将をキレさせて、その様子をスマホで撮影して拡散したという内容だった。ネット上では、総じて寿司屋の大将は同情的な眼差しを向けられており、snsに自分が発端で大将から怒りを引き出したのに、ここまで被害者ヅラした投稿をできるなという意見が多数を占めているようだった。

携帯を脇に置いて目をつむった。デジタルデトックス、デジタルデトックス。

デジタルデトックスなるものは、有害な情報を仕入れることに疲れた人たちが、何故だか仕入れてしまういらぬ情報と一定の距離を置く為の方便であるように。

あーわたしも、この倦怠と一定の距離を取りたいにもほどがあるが、自己デトックスなぞ幽体離脱的な芸当はわたしにはできない。

でも自分と一定の距離をとるというのは、よくよく考えると魂のようなものがぽわっも揮発していくようなもではないかもしれない。それは、小説のようなものを読むこと、自分を超えた存在を体験して知覚すること、かもしれない。

そして、書くというこのわたしのライフワークは、この自分との距離を確認することに意義があることに気づいた。

人とひととの距離、自分との距離、それに絶対はないことが世の中の恐ろしさの一つだと思う。だから間違いを犯す。娘はトンデモない速度で成長している。速攻2歳になった。

常に同じ距離感はあり得ないはずであるし、それを日々丁寧に確認し、観察することが肝要であろう。がんばれ私。

 

 

 

 

 

 

救済構文

そうだ、と。コタツという塹壕で私は思う。

 

「〜してもよい」という、一般的の対岸の道を提案されることに私は疲れたのだと。

それは当初は救いであったはずなのに、いつのまにかにその救いは鬱陶しさや脅迫のようなものに変貌していた。

そんな感情をいだきつつも私は色んなことを許された。

許されたやいなや掌を返したかのようにそれ乗り移ったし、乗り移る前のものに対しては未練のようなものは何ひとつなかった。

わたしは解禁された途端に、まるでそれが最良の策だというような、画期的なものに見えた。

 

ただ現実、「〜してもよい」の救済のフレームワークを悪用、濫用する大人が後をたたないと思う。そうすると、本来的な意味での救済を見つけることがしにくくなる。

この疲労はネット社会の情報量がおそらく寄与していることだろうし、本屋にいったらいったで同じように救済の囁きが洪水のようにフロア一帯を満たしている。

私は本屋が嫌いになりつつあった。

 

こう書くとわたしは、自己啓発本をただ非難する活動家と揶揄されなくもないが、自己啓発本そのものは悪だとは考えていない。むしろー。

 

ここでわたし自身がやろうとしていたことは、まさにこの世に蔓延する救済の悪しき文化そのものに他ならない。

自分が特定の思想を持っていないことを示す為に、あえて対岸に手を伸ばし肯定すること。

その反力で己の立場を大袈裟に表明してみせるような、そんなことが人間よくやってしまう、やることだと思う。

自分の立場を誤認されないように、外堀を埋めることに余念がないのは、深層心理で疑われたくないという思いが強すぎるのだろう。

何に対して?自分が嫌悪する対象として、そう疑われたくないのである。

そういう意味で、類は友を呼ぶというのは、この蔓延する救済の構文をもってしても成立しないだろうか?我々は、自分の嫌悪の対象を共有することによって、仲間をつくることもある。会社の飲み会は楽しいが、現にそういうことをやっている。

人間の、外部に共通の敵を作ると協調するという性質。

人間が協調するための手段として、古来からこのレトリックは存在したのだろうか。

 

 

 

女哲学者

あなたはもう、存在してるだけでオッケー👌

女哲学者の新居知里はファミレスで0カロリーコーラを力なく吸い上げる私に底抜けに明るくそう言った。

大丈夫!大丈夫、ほら発達障害とかそこら辺にいっぱいいるし、オケラもいっぱいいるでしょ?オケラだって精一杯生きてるでしょ?あれそういえばオケラってなんだっけ?私、いつもこういときオケラの話よく出すんだけど、オケラってねばねばオクラと芋虫足して2で割ってからおもいっきしシェイクシェイクして頭から土の中に突っ込んだみたいなフォルムしてんだけど、ねぇ聞いてる?あれオケラって頭と胴体わかれてるの?昆虫?不完全変態?これわたし四角い頭を丸くしたときやったかも〜。でも、丸顔って言われるのはなんか癪だけど。

私はそんな話を聞いていなかった。集中できなかった。

帰り道にマッチングしたこの自称女哲学者と3言メッセージのやりとりをしてから、気付いたら御徒町の大通り沿いのファミレスに腰を落ち着けており、気づけばただ一方的にわたしは仕事で犯した自分の落ち度をこの女哲学者に吐露したのだった。

彼女は思い出したかのように、パッカーのポケットから4mm黒ボールペンをだして、テーブルの上にあるわたしの財布から自然な所作で札を一枚だけ抜き取った。か細く今にも切れそうな黒蜜を上から垂らしたようなその文字は現存在、最高💗。わたしは、それを焦点が合っていないことを気にも止めず暫くぼっーと見た。

女哲学者の姿はすでにいなかった。食後に頼んだクリーム餡蜜は、じつはまだ来ていない。

 

2024 抱負

炬燵、炬燵、炬燵、こたつ。ここまで仰々しい外見をしながらも対象を優しく包み込むあの包容力にギャップ萌えを禁じ得ない。

妻の祖母から寒くないかとしきりに聞かれるのだが、そのたびに大丈夫です〜とテキトウに返事を打つ。これ、有給の人が設定する自動返信メールみたいだ。

強。に設定されたこの温もりを超える温もりのなかで、新年の抱負などというものを考えようにも、なにもことばなぞでてこない。そもそも、炬燵で練り上げたその抱負に説得力はあるのだろうか。とはいっても何もせずにダラダラと今年をこれまでと同じやうに終えれば、それこそ、また一年後の2024の大晦日に後悔するのかもしれない....そういう恐怖が我々の中にあるのではないか。

そうすると私たちは有限不可逆な時間の中で後悔しない為に精一杯その人生を謳歌する、ということが最も大切なことで、私たちは時間を無駄にせぬように何か「目的」を設定すること、これこそが正月の最善であるということを永遠言い聞かせ(られ)てきた。

でも、結局それはとても正しい。自分はやたらとここ15年ほど目標とか目的とか言うものをやたら毛嫌いしてきたとようにおもう。ほんとうになんちゅうことか。ちょっと捻くれちゃってないですか?アンタと詰問したいところだが、よろしい若気の至りということしておきましょう。すくなくとも私の感性は、少し遠いところからそれらをめんどくせぇと言って蹴っ飛ばしながらこれまで生きてきてしまったのです。

年越し早々、炬燵から飛び出して人混みにダイブ、PayPayにぞっこんの人類がアルミ・銅貨を好き放題スローイングしまくって一方的に願望を唱えるイベント、初詣はめんどくせぇの最たるところであるが、逆に考えれば、人間はそのめんどくせぇに、サラリーマンの貴重な休日を消費しながらもこれだけのパワーをかけることができる変な生き物であることはほぼほぼ間違いないわけである。しかもこの摩訶不思議な生き物たちは、自分が何を信仰しているか、浄土真宗なのか真言宗なのかもよく理解していない始末である。(私も含め)

それでも私たちは、このめんどくせぇのビッグウェーブに乗っかり乗っかられ流されながらも、ナンヤカンヤこのイベントをそれなりに楽しんでいる。炬燵の外に転がっていることは、大抵はやる必要性もないことなのだが、これを今年もやらねばーとかお節作るのめんどくせぇ!とか思いつつも、わざわざ炬燵の外のものと積極的に対峙したり戯れたりもするわけで、これだから人間は辞められんのじゃーと人間様のツンデレ具合を肯定してみるも、年明け早々、万物肯定の潮流が自分の足元をさらっていくことに気づく。

万物肯定。短所を長所に、適材適所、そういったスローガンたち。私はもう、そういう言葉にうんざりし始めて来ていた。何か角度を変えれば、どんなに醜悪なものでも役に立つのか。トーマスもあれだけ役に立ちたがっているが、何であんなに、役に立ちたいのだろう。